第1回 文化人類学と文学④
目次
第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
③ 幻覚体験をめぐって
④ 「フレーム」をめぐる体験
④ 「フレーム」をめぐる体験
塚本 もう一つ重要だと思ったのは、「枠」に嵌め込む、フレームを意識してそのなかに入るという姿勢です。多様な現実を多様なままとらえようとする時に、どうしてもある枠に入っていこうとする身ぶりの重要性が浮き彫りになります。枠は現実を一つのイメージとして結晶化させていき、「枠の中の現実こそが本当の現実である」と感じさせてくる力がある。この場合の問題は、一人の人間がさまざまな枠のなかに入っていけるということですよね。枠のあり方によって、同じ一人の人間が違う人物になりえる。
鈴木 枠という問題はフィクション論とつなげられますよね。そこにも文学と結びつける糸口があると思う。
塚本 フィクションの成り立つ基盤として、ある枠を設定してしまう、と。
鈴木 塚本さんのいわれたことを完全に理解している自信はないんですけど、フィクションの問題というのは、要するに枠の問題だといえますよね。箭内先生は「フィクション」という言葉は使っておられなかったと思いますが、ご著書ではたとえばラドクリフ=ブラウンの論じたアンダマン諸島の停戦儀礼の事例などが言及されていました。ベイトソンが取り上げ直したトピックでしたね。停戦に向けた儀礼が本当の攻撃と混同されて、戦争状態に逆戻りすることもあるといった話ですが、つまり枠の内と外、いわゆるフィクションと現実との境界の曖昧さということが問題になるわけです。これはスポーツとか観光といったテーマとからめて「近代性」の問題としても論じられているんですが、これは本当に重要な部分だと思いました。近代という言葉はしばしば曖昧ですが、この文脈では次々に新しい「枠」が作り出されるとともに、それが自然なものとして客体化されるというプロセスが進行してきた時代、それでいて絶対的な「枠」がないので、無数の枠が危うく宙に浮かんでいるような時代が近代なのだと考えることもできそうです。だからそこでは、普段は確かなものと信じられているフレームが弱体化したり、他のフレームと入れ替わったりといった通過儀礼的な状態が、典型的な儀礼とは違って、反復されない一回性の出来事として起こることもありうる。箭内先生のご本では昭和天皇崩御までの数カ月に日本で起きていた異常な現象(「記帳ブーム」や「自粛ブーム」)とその後の急激な日常への復帰について、そういう観点から語られていたと思います。箭内先生と私はまったく同じ世代なんですが、ここで語られている一九八八年から八九年にかけての状況は、とてもよく理解できました。一方フランスの文学・思想の文脈だと、そういう日常のなかに普通じゃない何かが出現してしまって、枠がなくなるのか別の枠が現れるのか、そういう体験としては、よく「六八年五月」が語られたりもしますね。もちろん天皇の死といわゆる「五月革命」を同一視するのはどうかと思いますが、六八年五月というのは、ブランショなどを経由していくと、ちょっと強引だけれども、バタイユが考えていた「体験」といったものに接続していくことも可能なわけで、どこかで人類学的なテーマと結びつけることもできるかもしれません。これもまたあまりうまく質問の形にできないんですが、そのあたりで色々な連想が可能なんじゃないかという印象を持つんです。なんというか、文学が力を持たないといわれる時代というのは、いわゆる現実と文学ないしフィクションというのが、さまざまな枠の形で交替しうる時代でもあるというふうにいえるかもしれない、と思うわけなんです。
箭内 枠の概念は、『イメージの人類学』の作業の終わりの方で出てきたものですが、私自身もとても重要だと思っています。今、鈴木先生が完璧にまとめてくださったとおりですし、そこからお二人が展開されているアイデアの方向性にも深く共感します。文学と人類学の関係という点に戻ると、文学にあって人類学にないのは、実験性ということではないかと思います。例えば、塚本先生が先ほどお話しくださったクロード・シモンの場合、現実性からの制約からは自由であるところの、「文学」という枠の中で――具体的には、おそらく紙の上で――いろんなものを組み合わせながら、様々な響きあいを試していく、という作業が背景にあるのではないかと私は想像します。人類学者はフィールドの現実性の中に様々な響きあいを聴こうとするのですが、文学ではむしろ枠を前提としたうえで、その自由な空間の中で、紙と文字という素材を使って、いろいろと組み合わせて新しい響きを探し、それを重ね合わせていく。ただもう一方で、今日の世界では、我々自身が日常的にも様々な枠の中で暮らしていて、今鈴木先生がおっしゃった通り、その枠が弱体化したり入れ替わったりしたり、ということが起こる。そして今日では、文学的実験の方もそれと無関係ではありえないわけで、作品の内部で様々な枠が蠢き、そしてそれは、時に文学という枠自体をも壊してしまうかもしれない。そうした実験はそれ自体、今日の我々の生の表現でありうるのではないか――今日のいろんな議論のなかで、そのように思えてきました。
塚本 箭内先生、鈴木さん、今日は長い時間お付き合いいただき、ありがとうございました。
2019年7月1日 於:東京大学本郷キャンパス
【後記① 鈴木雅雄】
なんといっても印象に残ったのは、箭内先生のイメージ概念の驚くべき柔軟さでした。かといってそれは、決して広すぎるがために焦点の定まらない概念となることもなく、明確な軸の存在を感じさせてくれるものです。おそらくそれは人類学という学問が、理論であると同時に、そしてそれ以上に一つの実践であることと関連するでしょう。箭内先生も議論のなかで、「人類学者にとってテクストは通過すべき場所であり、着地すべき場所では」ないとおっしゃっています。概念を作ること以上に、その概念を作ることによって何が起きるかが重要だという態度決定、それは(いわゆる)文学研究・美術研究との差異であるとともに、文学・美術との新たなつきあい方を示唆するものであるかもしれません。
文学や美術を人類学のような営為と隣り合わせたときに見えてくるのは、それらを一つの最終的な形態――要するに「作品」――とは異なる何かとして思考することの重要性です。ベルティンクのきわめて拡張的なイメージ概念が、それでもやはり「不在」としての表象概念に縛られているとすれば(そういっていいかどうか、実は非常に微妙ではあるのですが)、それはイメージが最終的なところでは、表象される対象から独立した独自の存在、つまりは「作品」として思考されているからでしょう。建築は、一つの目的に収束するのでなく、さまざまなイメージ平面が(矛盾を抱えつつ)重なり合う場であるといった箭内先生のご発言もまた、この問題系のなかで理解できるものです。建築には単一の「作品」平面はありえないのです。
さらに自分の領域に近づけたコメントをつけ加えるなら、シュルレアリスムもまた本質的に、「作品」という一つの平面に収束しないという性格を持っています。オートマティスムの実験によって書き手のなかで何が起きるかが重要であると同時に、かといって書かれた結果が端的に無視されているのでもありません。「作品」という自律的な存在と、作り出すことは手段でしかないと考えることのどちらにも軍配を上げることなく、そのあいだのどこかにとどまるという選択こそが、シュルレアリスムが人類学と軒を接していたことの本質的な理由だったのではないでしょうか。さらにいうなら、(少なくとも日本の)マンガもまた、「作品」としてはどこまでも不純なものであるよう運命づけられています。それもまたあくまで一つの平面での完成に抵抗する、複層的なイメージにほかなりません。自分が関心を持ってきたさまざまなことが人類学とつなげて考えられるとすればそれはどういう意味においてなのか確認できたことが、私にとっての大きな収穫になりました。
テクストはたしかに存在するという実感を持ちながら、あえてテクストへの敬意を捨て去ってしまうこと。「作品」などどうでもいいといってしまうこと。そのとき何が起きるでしょうか。このワークショップが文学を他の領域とつなげるという以上に、文学自体が常に不純になり、文学とは異なるものに生成していくことの意味を示唆してくれるよう、期待したいと思います。
【後記② 塚本昌則】
箭内先生の『イメージの人類学』には、さまざまな人類学の本が紹介されています。とりわけ印象に残った本として、今回の研究会では話題になりませんでしたが、一人の人間だけを調査対象とした人類学の本があります。南米アマゾニア先住民社会について優れた研究をおこなった人類学者が、ある時奇妙な筋肉痙攣を経験、最終的に四肢が完全に麻痺した状態に陥るまでの十数年の生活を論じた本だということです(ロバート・マーフィー『ボディ・サイレント』(1987))。どうして一人の人間を対象とする人類学が可能なのか。箭内先生によれば、それは身体が、結局は一人の人間だけのものではないからであり、一人の人間の身体の変化は、他人との関係を避けがたく変化させ、以前とは異なるネットワークを形成させるからである──身体の変化によって社会関係が変化する過程は、人類学的考察が可能なプロセスだというのです。
西欧社会の立場から未開の伝統社会を研究する──人類学がそのような構えの学問でなくなっているということは聞いていましたが、一人の人間が、自分の周囲に広がる社会関係をフィールドとしてその特性を調査することも人類学の研究として可能だという話には、衝撃を覚えました。身体がひとりの人間だけのものではないから、たった一人の人類学もあり得るということは、言われてみれば当たり前のことのようにも見えますが、そこにいたるまで学問のあり方を再検討するために、どれほど膨大な研究の蓄積が必要だったのかを、箭内先生のお話をお聞きしながら再確認しました。そこにはまずフィールドがあって、そこで経験し、触発されたことを出発点として考えるという学問の根本的な姿勢があります。フィールドで何が起こっているのかを問う──その根底に立ち返ることで、学問のあり方をどのように再編成していけるかが見えてきたというお話には大変考えさせられました。
文学には、それに較べて、虚構という迂回路を経ることで現実に迫ろうとするという姿勢があることがわかります。虚構が必要なのは、証人がおらず、痕跡さえ残されていないような出来事をどのように語ることができるのか、あるいは経験したことが理解できる範囲をはるかに超えていて、語りようがないことをどうすれば語ることができるのかという問題があるためです。つまり、一人の人間が経験し、語ることのできる範囲をはるかに超える領域こそ、文学において問題となる。経験の境界領域を外で起こる出来事を、あくまで一人の人間の眼を通して語ろうとすることが、文学という営みの根底にあるのではないかと先生のお話をおうかがいしながら考えました。
ただ、この問題も結局は、人類学で深く追究されていることがわかりました。箭内先生がお話になったアヤワスカ体験にそのことが集中的にあらわれています。通常の身体感覚とは異なる経験をどのように言語化するのか。それは経験したことを言語化するという問題であると同時に、経験を共有しない人間に、言葉にならない体験をどのように伝えるのかという、きわめて文学的な問題であるように思います。同時にそこには、身体のあり方への認識を深めていこうとする、人類学、哲学、文学等の学問によって色分けされない、ひとつの境界領域があらわれているのではないでしょうか。
第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
③ 幻覚体験をめぐって
④ 「フレーム」をめぐる体験