第2回 フィクションと文学②
目次
はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢
② フィクションと事実の区別
さて、2番目の質問についてですが、フィクションと事実を区別しなければいけないということは、まさしく私の基本的な立場です。またこれは、私だけではなくて、ほとんどのフィクション理論の研究者が採っている立場でもあります。フィクション理論家は「すべてがフィクションだ」という立場──これを我々は「汎フィクション主義」と呼んでいますが──を決して採らずに、フィクションの固有性は、事実あるいはノンフィクションとの関係によってのみ理解されるという考え方をします。
この考え方には、さきほど述べたポスト・トゥルース的状況のように、倫理的とでもいえる側面があることも付け加えておきたいと思います。そのような倫理性とも関わるのですが、塚本さんがさきほど述べられた、クンデラのいう道徳的判断が中断される領域としてのフィクションということは、とても重要です。小説であるにせよ、ビデオゲームであるにせよ、現実にコミットしない形で我々が何らかのことをシュミレーションできる領域を確保することは、文化にとって、あるいは社会にとって非常に本質的なことであり、また重要な役割を持つことだと思うんですね。ですので、そういう領域が犯されると、それは非常に恐ろしい事態をもたらすわけです。そうした状況を典型的に描き出しているのが、ジョージ・オーウェルの『1984年』です。オーウェルが描いた世界では、全体主義的な体制によって、人々の言語や思考までもが「ニュースピーク」や「二重思考」として完全に管理され、小説もプロパガンダの役に立つように、というより、プロパガンダの役にしか立たないように生産されている──小説執筆機という機械によって、文字どおり「生産」されている──わけです。しかも「真理省」の管轄下にある「虚構局」という部門で。で、これは以前にも書いたことがあるのですが、このような世界の住民は、おそらく小説を読むことはできるけれども、しかしそれを「フィクション」として読むことはできないんだと思います。
つまり彼らは、書かれている物語の展開などを楽しむことはできるかもしれないのだけど、それを現実からいったん切り離した「ごっこ」や「メイク=ビリーヴ」として読むことはできない。もっと言うと、まさしくクンデラが強調したような小説の読み方を可能にする認知作用が彼らには欠けているわけです。そうしたことを考えると、ちょっと極論になるかもしれませんが、フィクションと事実を区別しない、あるいはフィクション固有の領域を認めないという発想には、最終的にはそういうディストピア的な世界に繋がっていくような危険が含まれているように思います。でも、フィクションと事実を分けることが重要だということは、両者が安定した境界によって分かたれていて、それぞれが独立して相互に交渉をもたない領域を形成していなければならないということではまったくないのですよね。事実的なものとまったく関わらないフィクションなんて、何の面白味もないでしょうし、そもそも、そんなフィクションは不可能です。ちょっと話が逸れてしまうかもしれませんが、小説にかぎらずフィクション的な生産物に対するときに、リアルへの欲望というものがすごく強く感じられることがあるじゃないですか。たとえば、ひと昔前に携帯小説というのが流行りましたよね。あのなかには、フィクションだって分かると急に読者が離れていくような現象がみられました。「なんだ、嘘だったんだ」みたいなかんじで。それとはまた異なりますが、さらに昔の(今でもあるかもしれませんが)「実話小説」や、さらに「純文学」的なところでは「私小説」にしても、半分はフィクションであると知りながら、でもリアルであったりガチであったりというのを求めているような欲望というのが、ある種の小説ジャンルを成立させていて、そういうフィクションのグレーゾーンみたいなことをどう考えるのかというのは面白いし、重要なことだと思います。
また、さらに話が飛躍してしまいますが、フィクションと事実の緊張関係ということでいえば、「悲劇のパラドックス」というのがありますよね。要するに、なぜ人は舞台の上や本の中で人が苦しんだり死んだりするのを観て、あるいは読んで、楽しむことができるのかという問題です。これは分析美学でもしばしば取り上げられる哲学上の重要な問題ですが、今述べたようなリアルへの欲望とは正反対のフィクションに対する心的態度であるように思います。なんだか問いをいただいてさらにそれを別の問いにつなげていくだけで、とりとめもないことを言い連ねてしまいましたが、無理矢理まとめるとすれば、フィクションと事実を理念的に区別する重要性がある一方、現象としてのフィクションは事実的なものときわめて複雑な関係を持つ。それが「フィクションという現実」であり、それを考えることがフィクション論の醍醐味のひとつではないかと思うわけです。
最後のご質問は、「没入」と「没入の媒介」についてでした。このことについて今日はお話する時間がなかったのですが、シェフェールは『なぜフィクションか?』の第4章で、7種類の「フィクション装置」を分けています。それは、素朴な「ごっこ遊び」みたいなものから小説や演劇、映画を経て、現代のバーチャル・リアリティに至るまでのさまざまな「フィクション装置」を、それに没入する「態度」と、その没入の態度を引き起こす「媒介」という観点から、包括的に整理するというものです。正直に言って、この分類はあまり成功しているようには思わないのですが(シェフェール自身も「額面通りに受け取ってはならない」と言っています)、この分類表に面白いところがあるとすれば、それは、これまでたとえば小説のナラティブについて、一人称や三人称、ナラトロジーの専門的な術語をつかえば、等質物語世界的とか異質物語世界的とかいっていたような分類体系と、シェフェールがここで提示している「フィクションをいかに(没入として)経験するか」というような分類体系が一致しないという点にあります。
つまりどういうことかというと、伝統的なナラトロジーで行われてきたように、たとえば一人称の物語(等質物語世界的物語)では語り手の意識、認知範囲を越えた世界は原則として提示されず、それゆえ読者が経験することもない、他方で三人称の物語では……といったように形式的になされてきた分類の体系が相対化され、言語以外のフィクションと同一の次元に並べられることで、その特徴が記述しなおされることです。もう少し言うと、フィクション世界にいかなる方法で接近するのか、そしてその世界にいかなる心的様態で没入するのかという分類基準によって──フィクション世界は、このように様相的にしか存在しないこともついでに付け加えておきましょう──たとえば小説が映画化されたときに、同一の「物語内容」がどのように異なる没入経験を引き起こすか、さらにいえばどのように異なるフィクション世界を起ち上げるかということを理解する手がかりが得られることになります。「小道具」の問題もそこにはもちろん関わってきます。そうした観点から、さきほど塚本さんがおっしゃっていたタルコフスキー映画の水の話を考えてみたいと思うのですが、どうなんでしょうね、逆に私がちょっと聞きたいというか、興味を持ったのが、この水のテーマというのがタルコフスキーの映画においては通奏低音のように響いているというのは、美的な経験ではないのだろうかということなんですよね。
フィクション的な経験とこのような美的な経験がどのような関係にあるのか、さらにいえばこのような美的な経験が、フィクション的没入を引き起こす「小道具」たり得るかどうかというのは、非常に重要な問題だと考えています。もちろん、映画を観ている本人としては、没入というフィクション的経験と美的経験は切り離しては考えられないものです。ただ、あくまでシェフェールに従って考えるなら、この本のなかで彼はこの両者をひとまず分けて論じているように思うのです。いったん、フィクション的なものと美的なものを分けたうえで、最後の結論部分で、フィクションに特有の「ミメーシス的没入」という経験を美的次元に置き直そうとしているわけです。こうした関係をどのようにとらえるべきなのか、という問題ですね。ちなみに彼が最近書いた本は、まさしく『美的経験』(2015年)と題されているのですが、それを読んだりすると、シェフェールが、フィクション的な没入経験を美的経験のひとつとして捉えているようにも思われます。ともあれ、美的な要素というのは、フィクション的経験、あるいはフィクション的認識に作用するということは十分にあると思います。発表の最後で第一次世界大戦小説の話をしましたが、そこで言いたかったことも、ある意味でこの点に関係しています。つまり、美的な制度として存在する文学が、社会変動にともなう感性の変化によって、当の文化や社会において受けいれられなくなったとき、そのときには、小説がそれまで可能にしていたフィクション固有の没入体験も不可能になってしまうのではないか、ということです。いずれにしても、美的経験とフィクションの関係の問題は、フィクションの歴史性や社会性を考えるうえでもまだまだ考えることの多い問題だと思っています。
それと、最後にちょっと第2の点についての補足をさせてください。フィクションと事実を峻別しなきゃいけないとさきほど言いました。それはそうなのですが、ただ、同時にフィクションと事実の境界線は、非常に文化的、社会的なものだということも付け加えておきたいと思います。だから、近代社会と古代社会、あるいは同一の時代に属していても文化的に異なる社会のあいだでは、何を事実とみなし何をフィクションとみなすかという基準は異なる。神話のステイタスの変化などを考えてみるとこのことはよく分かります。しかし重要なことは、我々がフィクションと見なしている神話を事実的物語としてとらえている社会においても、その社会のなかでは、フィクションの領域と事実の領域がどこかで線引きされていることなのですね。両者の境界は可変的であると同時に、その境界自体の存在は普遍的であるということを、最後に強調しておきたいと思います。
目次
はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢