第2回 フィクションと文学③
目次
はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢
③ フィクションと現実の境界をずらす
鈴木 では次に私からも少しお聞きします。それにしても久保さん、本当に話がうまいですね。もちろんシェフェールの本は読んで予習してきたんですけど、恐ろしく難しくて、正直とても困ってました。それをこれだけ見事に整理してもらってすっかり感動してしまったんですけど、そうやって整理してもらうと、やっぱり最初に考えるのは、今の塚本さんとのやり取りでも話題になっていた、フィクションと現実の境界という問題でしたので、繰り返しになるかもしれないですけど、私からもその点についてのコメントをさせてください。
フィクションと現実の境界は明確に存在すると同時に可変的でもあるという点、これは私としては一番こだわってしまうポイントです。そういえば最初に久保さんが、「ヴァレリーとブルトンは、反フィクションの筆頭だから」っておっしゃってましたよね。そんなこともないんだけどなあと思って聞いてたんですけど、たしかにこの話は、シュルレアリスムには合わないのかもしれませんね。フィクションと相性が悪いというより(ブルトンも暗黒小説とか好きだったわけですし)、フィクション論と相性が悪いのかもしれない。どうしても、「じゃあ、『ナジャ』ってどうだろう?」とか思ってしまうわけです。フィリップ・フォレストなどには、『ナジャ』をオートフィクションの特異な先行例みたいに扱ってる文章もあるんですけど、ブルトンはあくまでフィクションではないということにこだわるわけだし、他方ではフィリップ・ルジュンヌが自伝の話をするときにも『ナジャ』が出てきたりはしないわけで、非常にステイタスの微妙な文章です。それから、たとえば「溶ける魚」なんて、テクストによっては物語としても読めてしまうわけだけれども、自動記述だからフィクションとして構成するという意図はなしで書いているという建前ですよね。そうすると、意図に基づかない「偽装」というのがありうるかといった問題になってしまうわけです。無意識的な「偽装」というのがありうるかどうかといってもいいかもしれません。たしかにシェフェールはこの本のなかで、意図的でない偽装といえそうないろいろな要素、たとえば存在しなくなった宗教の神話とか、幻覚、夢といった現象とフィクションの違いについて言葉を費やしているんですが、そういうところを細かく見ていくと、賛成しきれない点は見つかるかもしれないなあとも思いました。
そういうわけで、自分の専門のことから考えると非常にややこしくなってしまうんですが、一番お聞きしたいのはもう少し一般的なことなんです。もしかしたら世代の問題みたいな部分もあるのかもしれないですけど、文学っていうのは根本的に、現実と虚構の境界をずらすものなんだっていうような、そういう倫理観を我々は受け入れてきたと思うんですよ。たとえば私なんかは学生時代に阿部良雄先生の授業を受けたわけですが、「ボードレールのレアリスムっていうのは「デジリュジオン(=幻想を解くこと)だ」、とか聞くわけです。普通は人が現実だと思ってるところを、それは現実じゃない、違うんだというのを示すのが文学の肝心なところだという考え方ですね。「幻滅」させることこそがレアリスムだと言われて、「ああそうか!」とか思ってたわけです。そういう文学の機能をどう考えたらいいか、という問題はありうるんじゃないでしょうか。シェフェールの本では、赤ん坊が外的な世界を認識できるようになるプロセスについて、「主観的内面性の世界と客観的外面性の世界とを同時に生み出す分離膜を「分泌」する」(注1)という表現がありますが、フィクションはそういう「分離膜」みたいなものをテストすることで強化させていくというような方向性が、大筋では考えられていると思います。現実と虚構の境界が、あらかじめ決まっているものではなくて、社会によっても変わるし、個人史のなかでもいろいろな経緯をたどって形作られていくという発想はよくわかるんですけれども、文学にはやはり、その境界を確認するのではなくて破壊するような役割もあるのではないか、というよりそれがむしろメインの仕事なんじゃないかというのが、私なんかが学生時代から持ち続けている常識的な感覚なんですよ。まあ時代が変わったのかなあという気持ちは強くあります。さきほどの塚本さんの発言でも、今ではある種の話題は、嘘だという記号を出しながらでも話したら、ひょっとして現実的に逮捕されるような状況があるんじゃないかという話がありましたけど、そういった変化ですね。そこからすると、今いったような私の感覚なんて過ぎ去りし左翼的なものの残骸にすぎなくて、今はシェフェールのような方向が正しいのかもしれないなとも思うんですが、それでもすっきりしていない部分もありますので、そういうかつての常識だったような考え方が、フィクション論からするとどういう位置づけになるのか、聞いてみたいと思います。
もう一つ、これは最近の私の悪い癖なんですが、このところマンガの研究に少しだけ足を突っ込んでいるせいで、なんでもかんでもマンガの話にしたがってしまうんですね。シェフェールの本では、マンガというのはあまり扱われていなかったということもあって、そういう意味でもお聞きしたいと思う点がありました。でもこれは今日のお話に対してというよりも、フィクション論と分類されるような話を聞くときによく思うことなんですが、没入ということが問題になるときに、リアルなものほど没入しやすいという前提で話が進んでいるような印象を受けるんです。まあ「リアル」とはどういうことかというのが大問題なわけですけれども、マンガであれば「リアル」と形容されやすい絵柄のマンガというのはあるわけですね。デフォルメの度合いが低くて、比較的多くの線が描きこまれたものの場合そういうふうにいわれがちなわけですが、なんだかこれは不思議に思えるんです。特に子どもがマンガやアニメに没入する場合、むしろリアルさから遠いものほど没入しやすいんじゃないでしょうか。いわゆるリアルなものだとダメで、アンパンマンだからこそ没入するっていうことがあるじゃないですか。別に子どもじゃなくて、我々自身で考えても、リアルな話っていうよりもむしろSFとかファンタジーとかいわれる作品の方が、ずっと簡単に没入しちゃうっていう感じがあるわけですよ。それはマンガに限らず、映画でもそうなのかもしれません。つまりイメージのリアルさと没入の関係というのは、なんだかわりとねじれた関係になってるんじゃないかという実感が常にあって、そこら辺どうなってるのか、これはシェフェールに対してというよりはフィクション論一般の問題かもしれませんけれど、この機会に聞いてみたいなと思います。というわけで以上二点なんですが、いかがでしょうか。
久保 ありがとうございます。やっぱりブルトンに攻撃されてしまいました。(笑) それはともかく、フィクション論という観点からすると、『ナジャ』はまさしくフィクションとノンフィクションの境界をまたぐ試みだというように捉えられます。そういう見方をすることが許されるなら、現在でもたとえばオートフィクションのように、様々な越境の試みが小説ではなされていますよね。他方、これまで小説的・フィクション的とされてきた語法を積極的に取り入れたニュージャーナリズムのように、ノンフィクションの側からフィクションに接近してくるような現象もみられます。そうしたことを考えると、フィクションと事実の境界というのは、先ほど申し上げたように、本質的に社会的かつ文化的なものであって、それを揺るがすことがその活性化につながる、もう少しいえば、それを揺るがすことじたいがひとつの知的かつ美的な経験となりうるのではないかということが、一般的な次元において言えるかと思います。阿部良雄先生が言われたボードレールの「幻滅」的レアリスム、あるいはより一般的に言って、既成のレアリスムを破壊することであらたな現実認識を生むという文学の機能は、こうした観点から考えられるのではないかと思うわけです。もちろん、シュルレアリスムの実験的テクストもそのひとつです。そこまで話を一般化したうえで、フィクションと事実の可変的かつ普遍的な境界ということで私がいいたいのは、両者の境界は、とりわけこのように越境的な試みをつうじて、再生成しつつ再確認されるのではないかということなんです。あえて言ってしまえば、このようにして不断に再創造されるのが「現実」なのではないかとすら思うわけです。必ずしも越境的なフィクションである必要はないのかもしれませんが、ある種の文学は、あるいはより一般に芸術作品は、このような集合的経験や認識における地殻変動を引き起こす契機となりうるのだと思います。だから一億何千万人の日本人全員が今から『ナジャ』を熟読することでフィクションと事実の境界に思いをめぐらし、現実を再創造すれば、世界はもうちょっと良くなるのではないでしょうか。(笑)
鈴木 それはわかんないですけどね。(笑)
久保 それはともかくとして、シュルレアリスムに限らず、メタフィクション小説などもそうですが、越境は前衛芸術のひとつのフィギュールといっても過言ではないですよね。「境界」をさきほど述べたような美的経験の対象とすることで、現実認識の変化を促すということは、前衛芸術が得意とする「異化」に他なりません。
それからマンガにおける没入についてですが、まず確認しておきたいのは、没入はリアルなものでなくてもじゅうぶん可能だということです。マンガはもちろん、強い没入体験をもたらすフィクションジャンルの筆頭であるビデオゲームにしても、イメージのリアルさは没入の必要十分条件ではないでしょう。もちろん『ファイナルファンタジー』の歴史などをみると、技術革新に伴うイメージのリアリズムの進歩に驚かされるわけですが、しかしだからといって、30年前にまだ粗いドット画でプレイしていた人たちの没入の度合いが、3D動画を駆使する現代のプレイヤーより低かったということはないと思います。もっとも、私自身はビデオゲームをやらないので推測に過ぎませんが。ともかく、没入とリアリズムというのはアプリオリには結びついていないことは確かです。とはいえ両者が無関係でないことも確かで、ではどこに関係があるのかといえば、それはジャンルの規則なのだと思います。この点についてシェフェールは、西部劇に飛行機雲やら舗装道路がちらっと映り込んでいるのをみつけて幻滅するという友人の例を挙げていますが、この例をちょっとアレンジして考えてみましょう。たとえば戦国時代を描いた映画のワンシーンで、上空に飛行機雲が見えるとする。そのような雲のイメージは、普通の時代劇であればあきらかにリアリズムに反する「ノイズ」となるわけで、それによってシェフェールの友人のように没入が断ち切られてしまうかもしれない。しかし当の映画が、例が古くてすいませんが『戦国自衛隊』のようなタイムトラベルものであるのなら、その同じ飛行機雲がまったく異なる意味を帯びて没入体験をより促進することもありえるというわけです。あ、戦闘機が現代世界からきたんだ、みたいに。この例が示しているのも、リアリズムは、記号そのものの属性というよりは、その記号の受容を規定するジャンルの規則、さらに言うなら、そのジャンルの規則によってひらかれる「フィクション世界」についての我々の期待の地平によって定められるということです。そして、ことフィクションに関しては、こうしたジャンルの規則を決定づける重要な次元が、パラテクストなど語用論的なレベルにあるということを付け加えておきたいと思います。ただ、没入効果とリアリズムの関係については、ジャンルの規則と「世界」の一貫性ということだけですべて説明がつくわけではないかと思います。いま私が述べたことは、ある意味で語用論的観点からみた没入体験の前提にすぎないわけで、鈴木さんのご質問にあった没入体験のプロセスそのもの、とりわけ「ねじれ」とおっしゃったことに対する十分な回答にはなっていません。なぜ一見すると「非現実的」な対象に、場合によってはより深く没入できるのかということについては、今のべたことに加えて、認知や心理のプロセスという観点からも考える必要があるように思います。こうしてみるとこの問題は、ご質問を逆にして、なぜ人はリアルすぎる対象には没入できないのかと考えてみたほうが糸口が得られるのかもしれませんね。ロボット工学などで「不気味の谷」と呼ばれている現象です。しかしこの問題についてはお答えできる準備をしておりませんので、今は考える方向性を示すだけにとどめさせてください。
(注1) 『なぜフィクションか』、144頁。
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はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢