第2回 フィクションと文学④
目次
はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢
④ フィクションと夢
塚本 非常に面白いやり取りを聞かせていただいて、もう少し言いたくなりました。先ほど鈴木雅雄さんのコメントの中で、むしろリアルなものでないほうが没入できるという話がありました。これに関連して、たまたまヴァレリーの引用を持ってきたので、ちょっと読み上げさせていただきます。「作品の永続性はその〈人間性〉によると信じている人々がいる。彼らは真正であろうと努力する。しかし幻想的作品よりも永続性をもつ作品があろうか?…… 偽造されたもの、現実離れしたものは本物の人間よりも人間的である。」 ヴァレリーは、幻想的であればあるほど、現実的に感じられると言っているのです。こういう、嘘だ、あり得ないと思いつつ、そこに迫真の何ごとかを感じるというのは、虚構の一つの楽しみではないでしょうか。嘘だとわかっているからこそ没入できる、これはとても不思議なメカニズムですね。
もうひとつ、タルコフスキーの話について補足させてください。タルコフスキーに出てくる水が、私には美的体験という風には受けとめられないんですね。タルコフスキーは「シオタ駅への列車の到着」によって、それ以前にはなかった新しい芸術が始まったとインタビューで答えていますけれども、記録された時間が目の前で展開されるという感覚は、タルコフスキーの映画ではすみずみにまで感じられるものです(注1)。『鏡』の最初に草原の奥から風が吹いてくる場面があります。あの画面は色調が緑色がかっていて、場面が現在のものではないことが示されているのですが、草原の奥から風が押し寄せて、草がざわめいている時間というのは、いま目の前で起こっていることなんですよ。列車の到着の映像と同じように、いま起こってることなんです。物語的な時間として、過去として位置付けられようが、そこからどういうストーリーが展開されようが、話の流れとは別にいま見ている画面から広がる現在の感覚に圧倒されてしまう。映像によってしか表現できないこの感覚は、美の経験というよりもはるかに、驚きの経験、ぼう然と見ているしかない経験と言っていいんじゃないでしょうか。『惑星ソラリス』の最初の、藻が水の中で揺れているシーンだって、それがどういう時間なのか、本当には分からないですよね。『惑星ソラリス』という物語のなかにおさまりきらない、ある知覚世界の広がりがある。それは美的経験というよりは、むしろわからないまま何かを見つめている状態に近いものです。美というのはやはり相当次元の違う話で、確かにフィクションと分けて考える必要がありますが、それだけではなく、虚構作品のなかにはフィクションとは異なった次元がもっとたくさんあるのではないかと漠然と感じています。
最後に、いまの鈴木さんと久保さんのやり取りを聞いていて、ふと思い出さずにいられないのは、フロイトの夢の定義なんですね。共有された遊戯的偽装、というのがシェフェールのフィクションの定義ですけれども、フロイトの夢の定義って、忘却された欲望の、偽装された実現、ですよね。何が違うかというと、この共有されている、という部分です。この点を拡大して考えれば、久保さんが強調なさったように「フィクションは社会的なものだ」ということになります。それは受け手が嘘だとわかりながら参加する、社会的な活動です。しかし、そういう制約があったとしても、そこには何か夢の性質がないでしょうか。夢という言葉は使い方を間違えるとすぐに意味の分からない言葉になってしまうので、難しい言葉ではあるんですが、フロイトが言っていた偽装された表現のうちに、「あ、これは確かに現実だ」と思える何かが確かにある。夢の現実感というのでしょうか、その部分にはシェフェールのフィクション論に通じる部分があるのではないでしょうか。シェフェール自身は本の中で夢には少ししか言及しておらず、やっぱり彼も夢との類似性を突きつめることを危険だと感じているのか、その方向に論を伸ばしていくとうまくいかないことを感じてるようにも見えます(注2)。この点は、いかがでしょうか。
鈴木 まあ夢というのは、共有されないということがあるから難しいですね。
久保 そうですね。シェフェールは子どもの夢想(rêverie)については、それが大人との間主観的な関係において「遊び」として位置づけられることによって、フィクションになるということは述べています。つまり夢想の内容そのものの現実性や非現実性というより、それがいかにして社会的なものになるかというプロセスを、ウィニコットの心理学などを参照しながら説明するということですね。他方、睡眠時にみる夢については、映画論のクリスチャン・メッツが映画体験と夢の体験──これは没入体験に他ならないわけですが──を類比的に論じているところに注目しながら、夢とフィクションの間にある認知的プロセスの相同性について述べています。私自身は怖がりなので、映画などで銃が発砲されると、その以前に拳銃が画面に出ていて心の準備ができているにもかかわらず、どうしても体がビクッと動いてしまいます。しかし、だからといって私は映画館から逃げ出すわけではありません。それは私が「これはフィクションだ」と知っているからです。このようなズレを含んだ認知を、シェフェールは前注意的な心理プロセスと現実認識にかかわる「信」の二元的認知として説明しています。つまり人間はフィクションであるか否かにかかわらず、ある種の表象や刺激に対しては機械的に反応してしまうけれど、しかしその直後にその反応を中和する認知機構が意識のレベルで働くということですね。シェフェールはこの認知機構に生物学的、神経学的な基盤がある可能性を考えているようで、そこから夢についても、表象や刺激に反応する前注意的なレベルと、それが運動につながらないように中和する──そうしないと夢遊病になってしまいますから──脳や神経のレベルが観察されるという話になります。フロイトの言うような夢の現実感が、欲望がなんらかの表象に翻訳されることで(再び)見いだされるときに感じられる現実感だとしたら、ここで言われている夢の現実感とはだいぶ異なるかと思いますが、認知科学や神経科学を参照するシェフェールが、夢について与える説明はこのようなものとなります。
あと付け加えておきたいのは、夢とフィクションのあいだに今述べたような認知的な類似が見られるからといって、夢はフィクションの源泉であるというような議論にはならないということです。そのあたりはやはり、シェフェールがフィクションをあくまで意識のレベルで成立するものだと捉えているからでしょうね。とはいえ『なぜフィクションか?』が出た1999年以降、物語論や美学を認知科学的に考えるアプローチはさらに進行しているので、この点についてもまた新たな展開が見られることかと思います。
2019年11月22日 於:早稲田大学戸山キャンパス
(注1) Cf. アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア──刻印された時間』、鴻英良訳、キネマ旬報社、1988年、89頁 :「列車が近づいてくるにつれ、客席はパニック状態になっていった。観客は席を立ち、逃げ去る。この瞬間、映画芸術が誕生した。ここで誕生したのは、単なる映画技術、世界を複製する新しい手段ではない。新しい美学原理が生まれたのである。/芸術史上はじめて、文化史上はじめて、人間は直接時間を表現する手段を見出したのである。」
(注2) ごく限られた例だが、シェフェールが「夢」という言葉を『フィクション的状態』と並べて論じている箇所がある。「表象により惹起させられた感情的反応は、意識のコントロールを大きく逸脱する。フィクション的状態──あるいは夢──がわれわれの感情生活を彩る力が、まさに(否定的な意味でなしに)感染効果と言えるほど、没入状態から脱した後も長く残りつづけることがしばしばある理由は、おそらくこれによって説明されるだろう。この感染効果はとりわけ子どもに(それゆえ真のフィクション愛好家すべてに)顕著である。」(『なぜフィクションか』、167頁)
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はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢