第3回 無意識と文学①

目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声




① ラカン vs メルロ=ポンティ?

塚本  それでは、これから座談会を始めます。始めに、早稲田の鈴木雅雄さんにコメントしていただき、次に立木さん、そして廣瀬さんに応答していただきます。その後、私からも質問させていただき、一通り話が終わったら会場の皆様からも質問・感想をいただきますので、よろしくお願い致します。では、鈴木雅雄さん、早速ですがコメントをお願いします。

鈴木  早稲田大学の鈴木です。よろしくお願いします。さっき廣瀬さんも言ってくれましたが、彼とはあまりに昔からの知り合いなので、なんだかかえってコメントしにくんですが……。今日は思想系の議論に詳しい方もたくさんいらっしゃると思うんですけど、文学系のことを中心にやってる人だと(一応、私もそうなんですが)、やっぱり「難しかったな」という印象が残るんじゃないでしょうか。なので、むしろ大づかみな質問をすることからはじめさせてください。

 まず、お二人の話には重なってるところが多かったわけです。たとえばキアスムという言葉がそうでした。廣瀬さんのお話には、無ではないけれど概念化はできない「何かあるもの」という、どうしていいかわからないような表現が出てきましたが、とにかくキアスムにおいて、そうした「何かあるもの」との遭遇が果たされるのであり、キアスムとはそうした遭遇において「炸裂と凝集がともに可能になる場」だというようなお話があったかと思います。それに対して立木さんは、メルロ=ポンティのいうキアスムをラカンがどう解釈していったかを出発点にして話してくださいました。キアスムをなしている「見る者」と「見えるもの」の関係、眼とまなざしの関係が、ラカンの論理では主体の構築プロセスをどのように規定しているかを語っていただいたと思いますが、この議論がラカンに、若いころの感傷的ともいえるような思い出を語らせるものだったというのも非常に印象的でした。さてそうすると単純な印象として、立木さんのお話は、主体の構築の話、つまり「炸裂」よりは「凝集」の話だという印象が残るわけです。

 議論の目的が違うといわれてしまえばそれまでなんですが、かなり近い問題からはじまって、最終的にそれが違う方向に行ったという印象が何となくあるわけなので、どこで分かれてそうなるのか、そこをまず解きほぐしてみたくなってくるんですね。たしかにこの言い方はあまりにも適当で、もちろんラカンのなかにも炸裂と凝集の反復のような部分だってあると思うし、廣瀬さんのお話も単純にスクラップ・アンド・ビルドの論理というわけではないと思うんですが(「新たな現われ」は「(到達しえない)最初の遭遇の更新」であるというような表現もあったかと思います)、それにしても、一方に構造のできていく話があり、他方では構造が生まれ変わっていく話があるという印象があるのだとすると、その違いは一体どこからどういう風に出てきているんだろうかというのが、全体を通して抱いた一番包括的な疑問でした。もっと具体的なことを聞きたい気持ちもあるんですけど、どうでしょうか、私が長めのコメントをするというよりも、この点についてお二人に少しずつ答えていただけたら、その辺から展開してもいいかと思うのですが。

立木  どういうふうにお答えしたらいいでしょうか……。今日、こういう機会を与えていただいて、廣瀬先生とご一緒出来たのは、私にとってとてもタイミングがよかったと思います。最初にも申した通り、私はラカンのセミネール第11巻(『精神分析の四基本概念』)の「まなざし論」をどう読めばよいのかずっとよく分からずにいました。それがようやく最近になって、何かをつかめたという感触をもてるようになったのです。その理由のひとつはメルロ=ポンティです。学生時代に『見えるものと見えないもの』を読んだときには、内容がぜんぜん頭に入ってこなかったという経験があり、それからメルロ=ポンティを敬して遠ざけてきました。しかし最近、久しぶりに『見えるものと見えないもの』を読み返してみて、そこで立てられている問いが見えるようになった。こう言ってよければ、いまようやくメルロ=ポンティを受容できるレセプターみたいなものが私の頭のなかにできてきた気がします。そういうタイミングでしたので、今日は廣瀬先生のお話をうかがいながら、いろいろと思い浮かぶこと、触発されるものがありました。ラカンとメルロ=ポンティが意外に近い問題圏をめぐって思考していたのではないかという思いが、実感として高まってきました。もっとも、そうはいっても、ラカンとメルロ=ポンティのあいだには、どうしてもうまく重ならないところもあります。たとえば、廣瀬先生が「スクラップアンドビルト」とおっしゃる点、すなわち、経験の根源というか、経験の基礎にかかわる部分から、いかに思考や芸術が立ち上がってくるのかという問いについて、ラカンは少なくともメルロ=ポンティと同じ視点やことばで語ってはいません。ラカンにおいては「構造」というものが、最初から外せない何かとして前提されているからです。現実界において何かが起きても、それはつねにすでに構造のなかにとらわれており、それゆえ何よりもシニフィアンの法と論理にしたがって動く、ということです。今日、廣瀬先生が細かく組み立て直してみせてくださったメルロ=ポンティの思考の地平を、ラカンはすっ飛ばしてしまうように見えるのです。これはおそらく、出発点の違いと言ってよい違いであって、それゆえに、ラカンとメルロ=ポンティは、じつは似たような問題をめぐって思考や言葉を紡いでいても、それがなかなか同じ平面、同じ土俵に乗ってこないのだと思います。もう少し具体的なものを引き合いに出すと、先ほど廣瀬先生は「垂直的な過去」ということをおっしゃいました。あれをフロイトの症例「狼男」の外傷記憶の問題に近づけようとしたら、どうなるか。ラカンで物語を作ろうとすると、どうしても「事後性」つまりNachträglichkeitという概念が外せません。フランス語ではaprès coupといいます。これにたいして、メルロ=ポンティはたぶんそういう概念を用いずに考えることを意図しているんですね。私は今日、はじめてそのことに気づきました。その違いがラカンとメルロ=ポンティのあいだにどれだけの隔たりをもたらすのかというのは、いまは言えませんが、これはやはり大きな違いです。Nachträglichkeitについて、ラカンは、この概念をフロイトのテクストに見つけて有名にしてやったのは俺だ、と自画自賛しています。実際、ラカンがいなかったら、精神分析の世界でもどれくらいの人がフロイトのNachträglichkeitに注目することができたか分かりません。それだけに、この概念を用いないことを選択したメルロ=ポンティが、いかに過去の問題、記憶の問題、時間の問題にアプローチしようとしたのか。これはたいへん気になる問題です。

廣瀬  基本前提として、哲学者の言説と精神科医の経験とが、表面上同じだとか違うとかいうのは、余り強調したくはありません。取り出そうとしてる経験が違うし、それからとりわけタームへの意義づけが違う。同じ「主体」と言っても全然違うことを考えているということがあるわけで、下手に議論をかみ合わせようとするとますますずれていく。むしろそれぞれの言説を突き詰めることで、限界的なところで出会うということがある。今日の二つの話もそのような地点で出会いうるのではないかと期待します。

Nachträglichについてはさておき、まず問題にしたいのは、ラカンの「大他者」や「象徴界」がメルロ=ポンティにはない、という、おそらく浅田彰も共有していたであろう構造主義的な立場からのメルロ=ポンティ批判です。そこがもしかして一番分かれるところですけど、要するにラカンの立場から言えばメルロ=ポンティに「大他者」はないことになり、メルロ=ポンティから言えばそれは否定的で超越的な観念論的原理を押しつけることである、という出発点の違いがある。その違いは、実は、僕自身は乗り越えたいと思っていて、そうでないといつまでも「現象学」と「構造主義」の不毛な闘争になってしまう。「大他者」に戻ると、それはメルロ=ポンティにとっていわば「限界概念」であって、説明原理じゃないということです。メルロ=ポンティにおいては、「大他者」がいない幼児的空間が描かれているのではなく、むしろ「大他者」あるいは超越論的主体が「到来」したときに、はじめて見るような風景を描き出すことからメルロ=ポンティは出発する。「大他者」も「見ることを学びなおす」ことが必要なのです。そういう違いなんではないかなというのがあって、ラカンとメルロ=ポンティは、同じ事象を反対側から論じようとしているのではないか。

それからラカンの絵画論ですけど、これには長年の疑問があります。「死のまなざしが主体を見ている」という三角形を組み合わせた図式ですけれども、あの図式を描いた人は、一体どこから見ているのか。これは近代の「遠近法」的で俯瞰的思考そのものではないかということです。というのも、メルロ=ポンティが「間接的言語と沈黙の声」で引いていますが、ブルネルスキーが遠近法を開発したときに、鏡を使ったということがありますね。フーコーの「侍女たち」の分析も同様です…まさに「スクリーン」的な思考は、メルロ=ポンティにとってルネサンス的・ユークリッド的なわけで、彼はセザンヌを代表とする近代の画家とともに、その存在論を乗り越えようとする。たしかにホルバインと同じく、セザンヌも空間の歪みが有名ですが、ラカンが強調するアナモルフォーズは、純粋に幾何学的な操作ですよね。セザンヌのような、おのずからなる「凝集」がない。ですので絵画論だけを見ちゃうと、両者の差異が際立ってしまう。ところが、デュラスに繋がる点などを見ると、必ずしもずれないようにも思えます。

また、ホルバインについては、もしかしたらラカン理論の説明原理としてはいいかもしれないけれども、彼が語ろうとしている経験からは、ちょっとずれるんではないかということです。例えばメルロ=ポンティが「私が見るのではなく、森に見られる」というアンドレ・マルシャンの言葉を『眼と精神』で引いているのは有名ですが、ラカンがいうように、私たちが鏡像的なもの、イマジネールなものに「籠絡」されるとしたら、ホルバインではなく、むしろマルシャンのような絵画によってではないでしょうか。ホルバインは、一回見れば終わり、「ああラカンの死のまなざし」……というところもあると思うので(笑)。むしろブラックなどの内的な強度を凝集させた絵画や、アンフォルメルな絵画のように微分的な解体をはらんでいるような絵画においてこそ、その細部が私たちを「突き刺す」のではないか。例の違いで理論が異なる、という話になってしまいますけれど。



目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声