第3回 無意識と文学②
目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声
② 哲学者と画家
鈴木 もちろん扱ってる次元が全然違うわけですね。たしかにそうなんですけど、ただ、たとえば廣瀬さんのいう「炸裂と凝集」というのを、具体的にはどうイメージしたらいいだろうとかいうことを考えてしまうんです。それを誰か一人の画家の作業と重ね合わせることはできないのかもしれないけど、やはり具体的な名前は何人も出てくるじゃないですか。今のお話にもあったように、そのときメルロ=ポンティにとって、具体例がホルバインじゃなくてブラックである理由があるわけですよね。もちろん「炸裂と凝集」というのは、単純にスタイルを変えていくということじゃないんでしょう。ただそうは言いながら、一方では廣瀬さんの話を聞いていて、やっぱり画家がスタイルを変えざるをえなくなるような体験と、無縁ではない部分もある気がしてくる。そういえばメルロ=ポンティって、ピカソは出てきませんよね。
廣瀬 出ない。
鈴木 ピカソって、どんどん変わっていった人の代名詞みたいな人ですよね。一方ではセザンヌの話をずっとしているんだから、セザンヌとピカソなら繋がりそうな気がするんだけど、メルロ=ポンティはそっちに行かないでジャコメッティとかの方に行くでしょ。ピカソだったらわりと普通にスクラップ・アンド・ビルドの話にもなると思うんだけど。だからここでいう「炸裂と凝集」っていうのはそれとは違うんだろうなあと予感しながら聞いていたわけです。なのでブラックが出てくると、何かメルロ=ポンティ独特の美術史理解が見えてくるような気もする。それで、どう聞いたらいいでしょうね……。画家でも作家でもいいんだけど、廣瀬さんが話してくれた「炸裂と凝集」っていうのをイメージするとなると、例えばどんな作家がどんな風に変わっていった話と考えたらいいんだろうって聞きたくなってくる……。どうです?
塚本 何それ(笑)
立木 ピカソの背後には、もしかしてクラウスがいたりします?
鈴木 でも、クラウスは世代が違うでしょ。メルロ=ポンティも、クラウスを読んでこのピカソ論は何か違うなと思ったわけじゃないし。
廣瀬 私は思いましたけれど。
鈴木 ああそうか、つまり今ではクラウス的なものが覆いかぶさってるのでピカソは出しにくいということですか。
廣瀬 そうそう。
鈴木 わかるんですけど、本当に単純に、青の時代とかキュビズムの時代、それから古典主義の時代とか、そういう推移はあるじゃないですか。作っては壊し、作っては壊しをやって来た人っていうイメージを、わりとみんなピカソについて持っているでしょ。でも、そういうのとは違うんですね。
廣瀬 ピカソについて詳しいわけではありませんが、クラウスの語るいわゆるセリーと言われるもの。あれは、僕の印象からすればかなり観念論的で、言語主義的な知的操作により構築されるものであって、それでおそらくメルロ=ポンティはピカソを議論しなかったんだと思う。要するに、ブラックというのはどちらかと言うと職人的な人で、メルロ=ポンティはブラック論を書いたジャン・ポーランの影響を受けているので、そういう「職人ブラック像」とセザンヌ神話が重なる。絶えず自分の作品の細部を彫琢しながら、レアリテを求める幻視者に彼はつねに惹かれている。
鈴木 たしかにそういう意味では、ジャコメッティもそうですよね。
廣瀬 そうそう。「現実」との関係がやはりある。
鈴木 なるほど。ただ、セリーの話、いわゆるパラパラ漫画みたいな構造の話というのはクラウスが強く出してきた話だけれども、やはり晩年のピカソなわけです。そこまでの過程で、ピカソはやはり内在的な必然性があって変わっていったし、その変化にはそれなりの論理があったんだろうと思うんですよね。
廣瀬 変化というより堕落かもしれない……(笑)
鈴木 ええと、どうしたらいいかな。ただ、美術史的に見るとメルロ=ポンティの選択って、とても興味深い選択だと思うんですよ。その時代だったらピカソを選んでもよさそうなものなんだけど、そうじゃない所を選んでやっていくのはどうしてかな、と思ってたので聞いてみたわけです。
廣瀬 「炸裂と凝集」というのはかならずしも個人の様式の変遷のことだけではなく、むしろ時代ごとに別のかたちで反復されるものでもあります。だからメルロ=ポンティは、クレーなど、セザンヌを一度解体し直して、反復するような人を評価するんですね。
鈴木 ピカソはセザンヌの作業を反復しているというイメージはあると思うんですけどね。
廣瀬 美術史的にはそうですが、メルロ=ポンティは別の流れを意識的に作ろうとしているのでしょう。美術史的にはキュビスムは、セザンヌを引き継ぎつつ乗り越えたものであり、セザンヌっていうのは、キュビスムの先駆者に過ぎない。そういう回顧的でヘーゲル主義的な立場に対して、たとえばセザンヌが、いままさに、とらえがたい「モチーフ」に出会い、それがかたちとして凝集する場面に注目する。この視点からみると、じつは現代芸術において、ピカソとは別なところで、セザンヌがいろいろ反復されている。例えば、ドゥルーズが、フランシス・ベーコンはセザンヌ主義者なんだ、という発言にはある意味共感するものがあります。ほかにはアンリ・マルディネ、リオタール、ユベール・ダミッシュやディディ=ユベルマンが引き継いだ流れですね。今日の話は、同様のことが文学にも言えるということです。
鈴木 ありがとうございます。ちょっと私が本題と違う方に話を持っていってしまったから、このあたりで塚本さんのコメントをお願いします。
目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声