第3回 無意識と文学④

目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声




④ 無意識の表象システム

塚本  ありがとうございます。今は具体的な作品への言及を通してお二人にコメントをお願いしましたが、もう少し大きな視点についてお尋ねします。フロイトは、すごくざっくり言って、意識はその全体が虚偽だ、という考え方を打ちだしましたよね。意識の内在性というのは虚偽の世界であり、人間が意識において「これはこういうことだ」と思っていることはすべて間違っていると主張しました。無意識という、意識できないものに操られているのに、それを自覚できないのですから、意識というのは、その現れ全体において虚偽だという見方は、きわめて印象的です。このような考え方に対して、メルロ=ポンティは真っ向から否定する態度を取っているように見えますが、いかがでしょうか。意識は、意識に現れるままであるという前提がないと、デカルト的な明証性はないわけですよね。合理的な思考というのは、人間の意識に内在するものを信じるわけですから、無意識を心的活動の中心に据えると、そのような思考はまったく信頼できないものになってしまう。フロイトのように、意識に現れるものに確かなものなど何ひとつないと考えれば、合理的な思考はその価値を失います。メルロ=ポンティはそのような考え方を徹底的に批判しているんじゃないでしょうか。

廣瀬  そうです。

塚本  どういうところで、どういう風に批判しているのでしょうか。大きすぎる話で申し訳ないのでが、よろしくお願い致します。

廣瀬  ええと、まず政治的な背景があって、マルクス主義の「虚偽意識」とか、サルトルの言う「自己欺瞞」という概念がありますね。それに対する批判がまずあります。それがイコール、フロイトへの批判ではないのですけれども、意識の背後にあるもう一つの意識として、意識を騙すものとしての第二の意識というのを立てることは出来ないと彼は言う。後にフーコーが「イデオロギー論」の「抑圧の仮説」を批判するのと同様です。共通しているのは、無意識を否定的なものとは考えないという立場です。これに対してメルロ=ポンティは、感覚的なものに対する「開け」は、原初的には肯定的である、という。彼の言葉で言えば、「初源的なイエス(oui initial)」というのがあって、感覚的なものに対して我々が開けているということは、全面的に肯定的なものである。メルロ=ポンティには、そういう存在論的前提があると思うんです。ですので、イデオロギーであれ、虚偽意識であれ、そういったものに対するものと無意識を同一視することは無いということになります。ただ、じゃあナイーブに開けてるだけかと言うと、そうではなく、そこにおいてこそ「何か」がおのずと凝集するというのが今日のお話しなので。

塚本  そもそも何かを見つめる時点で、見つめる人は、その見つめられる対象と無縁のものではなくなっているわけですよね。もし、意識全体が虚偽であるというふうに考えてしまうと、視界に現れるものも否定することにならないでしょうか。メルロ=ポンティの考えによれば、意識とそれが捉える対象とは、たがいに交錯しつつ存在しているが、意識は対象を完全に内側から捉えることができないために、そこにはさまざまなブレとかズレが生じる。その微妙な違いを少しずつ確かめながら、という言い方で正しいのかどうか自信がありませんが、少しずつ対象に肉薄してゆくことになる。しかし、意識全体が虚偽であるという考え方をいったん肯定してしまうと、感覚世界を捉えるそうした過程そのものが虚偽ということにならないでしょうか。立木さん、専門家のお立場から、この虚偽意識について何かコメントしていただけないでしょうか。

立木  意識が虚偽であるとまでは言わなくてもいいだろうと思います。それよりも、少なくとも私の発表はそういう角度からまとめられると思うし、おそらく廣瀬先生のご発表もそうではないかと思うのですが、いちど「無意識」というものを考慮に入れ、あるいは、そういうものが存在することを前提にしてしまうと、そのあと「意識」の機能なり働きなりを思考しようと思えば、もはや無意識からアプローチするしかなくなりますよね。無意識というものを出発点にしないと、意識にアプローチできなくなる。問題になっているのは、そういうことではないかという気がします。実際、フロイトの理論そのものがもうそうなっていますよね。何らかの出来事がいったん無意識的なシステム──フロイトは「表象(Vorstellung)」という言葉を遣うので、ここでもそれを遣いますが──無意識的な「表象」のシステムに登録されてしまうと、そのあと主体に回帰してくるのは、まずもってこの表象でしかありません。それにたいして、現実、すなわち、私たちの意識で捉える現実というのは、こうして反復される表象に対応するものが外界に存在しているかどうかを吟味するという形ではじめて問われるのです。

どういうことかというと、私たちは通常、表象が現実のコピーだと思っていますが、じつはそうではないということです。フロイトにしたがえば、何らかの「現実の」出来事がいったん無意識の表象システムに登録されてしまうと、現実、つまり私たちが意識で捉えようとする現実は、たんなる「コピー(=表象)のコピー」としてしか見いだせなくなるのです。私たちが意識によって捉えようとする現実は、表象にたいするオリジナルではなく、コピーのコピーにすぎない、ということです。一方、メルロ=ポンティの側でも、たとえば廣瀬先生が語られた「制度的無意識」などは、必ずしもいま私がお話ししたフロイトの仮説と同じレベルで捉えるべきことがらではないかもしれませんが、やはり意識的な把握がそこからしか生まれてこないような無意識の構造物を名指しているように思えます。

塚本  いまの立木さんのお話は、廣瀬さんがおっしゃっていたメルロ=ポンティの「垂直的な過去」と非常に親和性があるように思います。いったん無意識ができあがると、現実のうちに、その構造にかなうものを求めてしまうということは、「経験には現前しないような過去」、「現在において、遡行的にのみ現れてくる」過去をひとは求めるというメルロ=ポンティの視点にとても近いものがあるように思います。ただ、この「垂直的な過去」は、廣瀬さんが指摘された通り、直接アクセスできるものではない。ズレとか、ブレなどを通して、迷いながらでなければ近づけないし、おそらく完全に何が起こったのかという起源のところまで、たどりつくことはできない、そのように考えてよろしいんでしょうか。

立木  そのご質問に直接お答えする自信がなく、それこそズレたことを言うようで申し訳ないのですが……。先ほど私はフロイトの「表象」という言葉に注目しましたが、これは、ラカンではとうぜん「象徴界(le symbolique)」になります。つまり、フロイトの「表象」をラカンはおおむね「シニフィアン」と読み替えるわけです。ところが、たとえば「狼男」について、ラカンは、ひとつの経験がすぐに象徴界に書き込まれるというのとは異なる図式で考えようとしています。少なくとも、そう試みている箇所があります。つまり、何かリアルなこと、現実的なことが起きたとき、それはいつでもすぐに象徴界に書き込まれるかというと、そうではなく、まず、さしあたってイマジネールなレベルで刻印され、しばらくそのレベルに留まることがある、というのです。ラカンはそれをPrägungと呼びます。ローレンツの言葉で、通常「刷り込み」と訳されるあれですね。ラカンによれば、生後1歳半──もしくは0歳半──のときに両親の性交を目撃したという狼男の記憶は、4歳までのあいだこのプレーグングの状態にあったというのです。象徴界の「表象」のレベルに登録されたという意味での「記憶」ではなく、ただ想像界に刻印されただけの何ものか、つまり記憶未満の何ものか、ということです。狼男が4歳になり、言語の装置が彼の主体性のうちで機能するようになるとともに、両親の行為の性的な意味、すなわち性交および去勢の意味を彼が理解できるようになってはじめて、このプレーグングが記憶に移行する、すなわち、1歳半もしくは0歳半のときの出来事が象徴的なレベルに到達するのです──ただし、その記憶がまさにそのとき、事後的に、「外傷」になる、という帰結を伴って。それがラカンの説明です。先ほどのお話に戻ると、ラカンの場合はこういうかたちで「事後性」という概念を活用するのですが、メルロ=ポンティはそれとは別の仕方で「過去」を考えているわけですよね。それゆえ、私の先ほどのお話に「垂直的過去」を繋げることに、私は逡巡せざるをえないのですが……。

廣瀬  「刷り込み」概念は、当時共有されてたのかも知れません。コンラート・ローレンツがフランスでも受容されていました。この「刷り込み」が起きるためには、つまり特異な他者との遭遇が可能であるためには、自己の側でイマジネールな他者の先取りがなくてはならない。一種「本能的」なものとして、あるいは「夢」のようなものとして、イマジネールな身体が他者の受け入れを準備しているわけです。しかし話はそれで終わらない。実際に本当の他者が現れた時に、鍵と鍵穴が合うとローレンツは言う。でもローレンツが対象とした、ある程度「高等な」動物だと、先取りが失敗したりする。人間に刷り込みしたり、犬が床を掘るみたいに、「本能」が空転したり、鳥の過剰な「儀礼行動」が起きたりする。この過剰性に一種、メルロ=ポンティは象徴的なものの、文化的なものの萌芽を見ている。

塚本  失敗することに?

廣瀬  失敗する……。つまり、生物学的な本能に全部規定されるわけでは無い部分の他者もいわば受け入れちゃう。これは人間の場合は、一種の外傷となる危険もあるわけですが。このようなイマジネールな次元のずれに、自然からの肯定的な逸脱を見ている。その意味では、メルロ=ポンティはイマジネールな次元に、よりかかりがちなことは明らかですね。サルトルを批判することにこだわりすぎなのでしょうけれど。

立木  そうかもしれませんが、ラカンについても逆の側から同じことが言えます。ラカンというより、ラカニアンたちというほうがいいのかもしれませんが、むしろ現実的なものと象徴的なものにウエイトを置きすぎていて、イマジネールなものがともすると忘れられたり、二次的なものとみなされたりしがちです。先ほどお話ししたPrägungのように、ラカン自身にイマジネールなものを──鏡像段階とは別の観点から──理論化する試みがあったにもかかわらずです。一般に、ラカン派を自認する人々が、1950年代のラカンが「想像界にたいする象徴界の優位」を唱えたからという理由で、まるで想像界の問題にケリがついたかのように振る舞っているのは、必ずしも生産的な態度であるとは思えません。実際、想像界の問題をもう少し掘り下げることで、たとえばメルロ=ポンティと対話することができるかもしれない。そういう柔軟性は必要だと思います。

塚本  ヴァレリーが『ドガ ダンス デッサン』の中で、「鉛筆をもたずに物を見ることと、それをデッサンしながら見ることとのあいだには、絶大な違いがある」と言っています。見ているものを素描しようとして見る場合と、単に見ているだけの場合は違う。つまり、今日のお話の延長で言うと、鉛筆を手に持って見ているものを描こうとしている時には、何か蝶番を開きながら視野のなかに分け入ろうとする身振りがあるように思うんですね。それは多分、立木さんが論じられた精神分析の分野における「過去を開く」という身振りに通じていないでしょうか。そんなに簡単に開けないことはすぐ想像できますよ。すぐには近づけないし、よっぽどのことがなければ自分に呼びかけている過去を開くことなどできない。どうすればそこに近づくことができるのか。手に鉛筆を持つことで、徐々に風景に近づこうとする身振りを、そこに重ねることはできないでしょうか。

立木  ああ、なるほど。夢を見るように行為しようと思ったら、そういう次元のことが必要かもしれませんね。いま「過去を開く」身振りとおっしゃいましたが、フロイトにとってはそれが「寝椅子に横になる」ことだったのかもしれません。精神分析で患者が寝椅子に横になるのは、まさに記憶の水門を開くという意味で過去を開くことだといえると思います。分析家のところに来る患者は、画家が絵筆をもつように、寝椅子に横になるのです。過去に自分を開くために。ただし、患者が過去に回帰することが精神分析の目標ではありません。精神分析の目標は、あくまで、昨日とは違う自分を見つけることなので。



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はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声