第3回 無意識と文学⑤
目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声
⑤ 現実とフィクションとの境界
鈴木 ちょっといいですか? つながりはありつつも別の話になりますが、現実、あるいは「現実的なもの」という点についてです。ちょうど前回のフィクション論のセッションでは久保昭博さんが……。久保さんというより、久保さんが訳したシェフェールがということかもしれないけれど、フィクションと現実の境っていうのは明確に存在するという前提が絶対に必要だと強調してらしたですよね。今の話はそれとある意味逆の話になっているような気もして、そこがすごく面白いと思うんです。もちろん前回の話とは文脈が違うから一緒くたにはできないですけれども。ただこのあいだは、すべてがイマジネールであるというのとは少し違うけれども、現実的なものと虚構の境界を認めないような汎フィクション的発想に対してあくまで抵抗するところに、フィクション論の価値があるんだという話をしていたわけです。
たとえば精神分析についても、神経症の原因が子ども時代の現実の体験か、あるいは幻想なのかといった問題があると思いますし、それはさきほどの事後性の問題にもつながるわけですね。現実という言葉の捉え方によってずいぶん内容の変わってしまう話なので微妙なんですが、ここでしているような話は、現在のフィクション論による現実とフィクションの峻別といったことと、どういうふうに関係づけられるのかという点を考えたくなってきます。ついでにいうと、自分自身は文学の問題を、むしろ現実的なものと想像的なものの境界をどうやって崩すかという方向で考えてきたから、前回のフィクション論の話を聞いて、自分は古いのかなと思って困ったといったこともあるんですが。
立木 現代の文学理論がフィクション論をやろうとしたら、シェフェールのような方向で考えざるをえないと思います。久保さんももちろんそう考えているでしょう。そして、ラカンもどちらかといえば……。いえ、まちがいなく、そちら派、つまり現実とフィクションを区別する派です。そもそも、ラカンの「現実界」はまさにそのためにある概念にほかなりません。そういうレベルでの現実界がどこで体験されるか、いや、どこで問題になってくるかというと、夢からの目覚めです。私たちはなぜ夢から目覚めるのでしょうか。これはラカンが、フロイトの『夢判断』第7章の冒頭に報告されている「子供の身体が燃える夢」をコメントしながら立てている問いです。みなさんはこの夢をご存じでしょうか。病気の子どもが亡くなったあと、父親が隣の部屋で仮眠をとる。すると、夢に子どもが現れて、「お父さん、ぼくの身体が燃えているのが分からないの?」と問いかける。父親が目を覚まして、遺体の安置されている部屋に戻ると、倒れた蝋燭の炎が棺に燃え移っていた……というお話です。この夢について、フロイトが立てたのは、父親はなぜこんな切迫した場面で悠長に夢など見ていたのだろう、という問いです。父親は明らかに隣室での出来事を知覚してこの夢を見たし、最終的には目覚めたにちがいありません。だとしたら、なぜ出来事を知覚した時点ですぐに目覚めず、まるで眠りを引き延ばすかのように夢など見ていたのでしょうか。フロイトはこの問いに二重の答えを与えます。ひとつは「束の間でもいい、つまり夢のなかででもいいから、死んだ息子にもういちど再会したい」と父親が願ったからだという答え。もうひとつは、それと同時に、父親は──子どもの看病で疲弊していたにちがいないので──そのわずかのあいだだけでも余計に眠っていたかったのだ、という答えです。これにたいして、ラカンはまったく逆の方向に問いを開いていきます。もし息子に再会したいとか、もうちょっと眠っていたいとかという願望だけが夢のモティーフになっていたなら、この父親は、眠ったまま火を消すくらいの対応を充分とれたはずだ──夢遊病をみれば、もっと複雑なことを眠ったまましていた例はいくらでもあるではないか。問われなくてはならないのは、だから、「どうしてこの父親は目覚めたのだろうか?」だ──と、ラカンは言うのです。ラカンが「現実界」の概念を投入するのは、まさにここです。夢を見ていた父親は目覚めたが、彼はけっしてこの「現実」に、つまり、隣室で棺が燃えるという非常事態が起きている現実、目覚めた瞬間に彼の意識に映し出されてしまう現実に、戻ろうと思って目覚めたわけではない。彼が目覚めたのは、夢の背後から呼びかける現実界、「お父さん、ぼくの身体が燃えているのが分からないの?」と訴える息子の声の背後から呼びかける現実界に、応えるためだったのだ、と。この「現実界」を、ラカンはそこでは「来るべき欲動」と言い換えていますが、主体はそれをめがけて目覚めようとするものの、結果的に、私たちが「現実」と呼ぶもののなかに、つまり、それ自体はすでに象徴界のネットワークにとらわれ、想像界のヴェールを被せられて、私たちの意識に映し出されるという意味で、すでにひとつのフィクションにすぎないところの「現実」に、帰還してしまう。にもかかわらず、このように「現実界」にモティーフをもつ目覚めによって、夢の世界から区別される領域であるかぎりにおいて、私たちはやはり「現実」に帰ってくるべきだと、ラカンは言うのです。これはやはり、フィクションと現実のあいだには境界が存在する、という立場です。精神分析にとって、これは理論的な立場であると同時に、倫理的な立場でもあります。
廣瀬 それだと、メルロ=ポンティもそれほど変りはなくて、イマジネールな夢幻的なものも、それなりの現実性とへその緒が繋がってるって言ったのは、まさに覚醒の契機と関係しています。ただ、そのことではシェフェールに対する反論にはならない、ということでしょうか?
鈴木 いや、別にシェフェールに反論したいというのとも違うのだけれど、文学研究がどんどん倫理的になっていかざるをえない状況に対する違和感というか…。いや、これはあまり強調すると微妙な話になるからやめておこうかな。とにかく前回言ったことを繰り返すと、我々は文学っていうものを、普通「これが現実だ」って思ってるものについて、実はそれは現実じゃないと気づかせる、いわば現実の膜を剥がして、今まで現実だと思ってたものが、実はイリュージョンだったんだというように…。つまりどこまでが現実で、どこからがフィクションかという境界の場所をずらすようなものとして、文学を考えてきたと思うんですよね。じゃあ今の視点からするとそういう考え方はどうなるんだろうという話をしていたわけです。
立木 なるほど、それならよく分かります。ただ、そういう方向に進むと、精神分析の場合はとにかく長いお話になってしまうので……。フロイトの出発点はどこにあったのかというと、むしろ記憶のフィクション性を強調するようにみえる主張でした。フロイトがいつ「精神分析」を確立したのかを年表の上で正確に印づけるのはむずかしいのですが、有力な答えのひとつに1897年というのがあります。いわゆる「誘惑理論」を放棄した年です。フロイトはそれまで、ヒステリーの原因は大人からアビューズを受けることだと考えていたのですが、この年、その理論をあっさり撤回して、そのアビューズの経験は「空想されただけの経験でもありうる」と述べたのです。今日の精神分析家の多くは、これがフロイトの出発点、つまり精神分析そのものの出発点だと考えています。そこだけ取り出してみると、フロイトは「外傷記憶なんてフィクションでいいじゃないか」と言ったかのようにみえます。実際には、フロイトはようするに「人間はイマジネールなものによって傷つくこともある」と言いたかったにすぎないのですが。ところが、フロイトのその後の展開は、そちらの方向にのみ進んだわけではありません。さきほどお話しした「狼男」の例に最も顕著ですが、フロイトは子供が1歳半、もしかしたら0歳半だったかもしれないころに見たと想定される場面の記憶の「現実性」を、徹底的に追いかけていきます。そのときフロイトが論破しようとしている相手は、かのユングでした。ユングは、エディプス・コンプレックスなんて幻想でいいじゃないか、フィクションでいいじゃないか、と主張した人です。それにたいして、フロイトは、そうではない、エディプス的なものには現実的な支えがなくてはならないし、「狼男」の夢から再構成される「記憶」にも現実的な核が存在しなくてはならない、と、あくまで「現実」を追求していくのです。こうして、精神分析はフロイトのこの二つの立場のあいだで揺れてきたと言えます。つまり、外傷記憶はフィクションでありうる、という立場と、外傷記憶には現実の核がなくてはならない、という立場のあいだで。この両側をにらみながら歩んできたのが、精神分析の歴史なのです。ラカンの「現実界」は、まさにそこに一石を投じる試みでした。……というわけで、フィクション論は精神分析にとってけっして他人事ではない問題なのですが、このお話はやり出すと長くなりますね。
塚本 もう少し現在の状況に引きつけて、お話をうかがいたいことがあります。立木さんは精神分析を理論的に研究するだけでなく、実践もなさっていると思うのですが、それに関して強調なさっているのは、かつてフロイトがモデルにしたヒステリーという言葉は、もはやほとんど言われてなくっていて、現代社会では「メランコリー」や「鬱病」という言葉が使われるようになっている。そして、それならば薬で治せるという話になっている。立木さんはそのような考え方をさまざまな視点から批判なさっています。では、無意識という概念の生命力というか、この考え方がなければ人間は読み解けないって特に感じられるのは、どういう時なんでしょう?
立木 それについては、端的に一言でお答えできます。夢の意味がわからない時です。こんな夢を見てしまったけれど、どうしてなんだろう、と不思議に思うときですね。これは、「無意識」という概念なしではぜったいに解けない問いです。だから、私は、人間が夢を見続けるかぎり「無意識」の概念は無くならないだろうと思っています。というと、『露出せよ』のエピローグに書いたのとはいささかズレる結論になってしまうのですが。しかし精神分析にとっては、やはり、「無意識」の入り口はいつも夢だったし、いまもそうであると、私は思うのです。もっとも、分析家のところへ夢を持ってこない……というか、持ってこられない患者さんの割合は、もしかすると増えているかもしれないという印象はありますね。
塚本 それは、自分を晒したくない人が増えたということでしょうか。
立木 いえ、そういう意味ではなく、そもそも夢をあまり見ないとか、見たとしても覚えていないとか、ということです。あるいは、夢に興味が持てないとか。そういう人は、ひとむかし前は、心理の現場にあまり来なかったような気がするのですが、この20年ほどは多いですね。これは私の個人的な印象かも知れませんが。ただ、私がこういうお話をするのは、夢を持ってきてくれるということが、臨床的にはとても大事なことだからです。それはいわば、毎回分析家に贈り物を持ってきてくれるようなもので、患者さんによっては、そういう手土産がないと、何をどうやって話したらいいのかが分からず、手詰まりに感じる人もいると思います。分析家の側もそうです。いずれにせよ、夢というのはいまだに、精神分析の実践を、というか精神分析の取り組みを、最も遠くまで運んでくれるものであり続けていると思います。それは、フロイトの時代から変わらないと思いますね。
塚本 ありがとうございます。じゃあ、会場の皆さんから質問がありましたら、お寄せいただけないでしょうか。
廣瀬 こっちも構えちゃう。
塚本 全体的に非常に難しい話で、私も三割理解できたか、それとも二割くらいかという感じなのですが。
廣瀬 そんな……。
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はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声