第3回 無意識と文学⑥

目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声




⑥ 哲学と文学、精神分析と文学

鈴木  ええと……、すぐには質問がないようなので、その前にもう一つ質問してもいいですか。直接今日の内容ではないんだけども、聞きたかったことです。これも漠然とした質問なんですけど、この企画って、文学と人文知の関係が20世紀になってどう変わったか、みたいなことを考えているわけです。そこでですね、たとえばメルロ=ポンティなりラカンなりが、文学とか美術を語るときの語り方が、前の世代と何か違うところがあるだろうかという問題はやはり考えてみたい。たとえばさきほど、ラカンが「デュラスは素晴らしい」と思って、本人を呼び出したという話がありましたよね。傍迷惑な話ではあるんですけど、そういうなかで作家との関係が、何か変わってきた側面はないだろうかと考えるんです。

 当たり前といえばそうなんですが、精神分析と文学の関係というと、基本的には作品がまずあって、それを対象として分析するということになりますね。作家は、精神分析家がまだ考えていないことを直感的に分かっていて、それを分析家が解釈して見出すというふうな、そういうスタンスだと思うんです。まあそう言いながら、イェンゼンにちょっと手紙を書いてみるみたいな部分では、フロイトと作家のあいだでも相互的な関係があったかなとは思うんだけれども。そのあたり、ラカンは少し違ったりするんでしょうか。あるいはメルロ=ポンティにしても、たとえばサルトルがジュネを論じて、すべてを論じ尽くしてしまって、作家が全然もう書けなくなるというような、つまり対象としての作家を汲み尽くすというような、そういうやり方とは違うスタンスで考えてたんじゃないかというイメージがあるわけです。今日のお話をシモンが聞いたら、たしかに本人は困ったろうとは思いますけどね。何かもうちょっと、分析する対象として作品と相対するというのとは違う関わりが、ある時点から出てきていないだろうか。もしそうだとしたら、それはどんな関わり方だろうか。文学と人文知の関係をテーマにやっているので、やはりそこはお聞きしてみたい。どうでしょう?

立木  私はこの問題をわりと単純に考えていて、今日も結局その次元でしか文学の話をしませんでしたので、もしかすると文学的なもののほうに議論が広がらなかったかもしれませんが、少なくともラカンの立場ははっきりしていました。今日も二度にわたって引用したことばですが、ラカンはデュラスについてこう述べています──「マルグリット・デュラスは、私が教えていることを私抜きに知っている」と。デュラスはラカンが精神分析家たちに教えていることを、ラカン抜きに知っている、実践している、というわけですね。ようするに、文学的な実践のほうが精神分析の先を行っているということです。ある種のことがらについては、文学が精神分析的知をそうとは知らずにすでに実践しているので、精神分析がそれについて何を言おうと、もはや後追いでしかない。だから、デュラスの小説のような文学作品を前にして、分析家が「自分はこれについて何か知っていますよ」といって心理学者ぶる必要はない、そんなことをするのは滑稽だ、とラカンはズバリ指摘するのです。これがラカンのスタンスであり、同時に私のスタンスでもあります。ここには、もちろん、ラカン以前になされていた精神分析の「応用」への、つまり、精神分析理論を応用して文学作品や芸術作品を読み解こうとする一群の試みへの批判があります。このことと関連して、余談ですが、こういうこともあります。ラカン以前には、文学・芸術作品への精神分析理論の応用は「応用精神分析」と呼ばれていました。ところがラカンは、そういう安っぽい「応用」はもう要らないと言わんばかりに、この「応用精神分析」というタームをまったく別の意味で用いるようになります。それはラカンにおいて、「精神分析の実践をもっぱら治療のために用いること」を指すようになるのです。ラカンにとって、精神分析とは本来、新しい精神分析家を生み出すための実践です。それを、諸々の症状の「治療」という限定的な目的を手に入れるためだけに用いること、ラカンはそれを「応用精神分析」と呼ぶようになるのです。こういう視点に立つので、ラカンの目には、文学や芸術の作品に精神分析理論を当てはめて喜ぶような振る舞い、すなわち、古い意味での「応用精神分析」など、ただのお遊戯と映っていたにちがいありません。実際、ラカン自身は、そういうものにうつつを抜かすことはありませんでした。ポーの『盗まれた手紙』にせよ、デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』にせよ、これらの作品に喜々として飛びついたとき、ラカンが行ったのは、厳密に、自分の理論に呼応するもの、あるいはそれを先取りしていた(と判明する)ものを、そこに見いだすこと、そこから取り出すことだけです。それはけっして、作品を「分析」することではありません。

鈴木  もうちょっとお聞きすると、私はやっぱりシュルレアリスムを研究してるので、精神病者自身が書いたテクストの問題があるわけなんですけれども、それと文学の関係をどう考えるかというテーマもあります。たとえばブルトンが精神病の人が書いたテクストを見て「これは素晴らしい」という。それが文学かどうかを考えるより以前に、これは素晴らしいと思って、とにかく真似してみようとするわけですけど、その時にはある意味で境界がなくなっている。結局ブルトンが書いたものは詩になってしまうという事実があるにしても、読んで「これはすごいじゃないか」と思って、その瞬間には境がなくなってるかもしれないんですね。どういったらいいかな、立木さんの立場からして、たとえば精神病の患者自身が書いたものをすごいと思うっていうことと、文学作品を読むっていうことは、どういう関係になるんでしょうか。 

立木  文学版アール・ブリュットといかに向き合うかという問いですね、つづめて言うと。それについて何かまとまったアイデアがあるわけではありませんが、きっぱりした境界を設けるのは、いずれにせよむずかしいですよね。アルトーの作品なんてどちらの側からも読むことができるように思うので。ちょっとまたズレたことを申すようで恐縮なのですが、先ほどのお話の続きでいうと、「読んですごい」と思うのは「批評」に属しうることがらではあっても、「分析」には属しませんよね。精神病者の書いたものも、文学作品も、批評はできても分析はできないという点では一致するといえるかもしれません──ちょっと強引かもしれませんが。そもそも、書かれたテクストを「分析」することなどできるのでしょうか。書かれたテクストを前にして分析しうるのは、テクストそのものではなく、それを読む私自身の思考であったり、こういってよければ「内面」であったりするだけではないのでしょうか。いずれにせよ、「書かれたもの」そのものを、精神分析で患者さんが語ることばを分析するのと同じように分析できるかといえば、ぜったいムリに決まっています。なぜなら、その分析の効果がどこにも現れてこないからです。私たちがいかに「分析」しようと、テクストそのものに何らかの変化が生じるわけではありません。その意味で、精神分析には「書かれたもの」を分析することなど不可能だし、ラカンにもそのような野心はありませんでした。ただ、いま思いついたのですが、精神病者の書いたテクストという鈴木さんのお話に引っかけて、こういうことはいえるかもしれません。フロイトはパラノイア患者ダニエル・シュレーバーの手記を「分析」しました。これはいま私自身が述べたこと(「書かれたもの」は分析できない)に矛盾しますが、その点は脇に置いてください。いや、この「分析」の結果フロイトが手にしたのは、当の「分析」を通じて再構成されたシュレーバーの妄想の論理が、フロイト自身の精神分析理論とあまりにも似ているという驚きだったことを考えれば、フロイトの「分析」の性質がいかなるものであったかについては議論の余地がありえます。しかしいずれにせよ、フロイトはシュレーバーのテクストの「分析」が、話された言葉による分析の代わりを──不十分ながら──務めると考えていました。これにたいして、精神病者のテクストにたいするラカンのかかわりには、フロイトよりむしろブルトンに近いように見えなくもないところがあります。つまり、「すごい」と思って自分もやってみよう、という反応ですね。ラカンの場合、それは詩ではなく理論的な言説に行き着くのですが、シュレーバーやジョイスの書いたものを「分析」するのではなく、むしろ彼らの言語を真似てみよう、彼らが書いたように書いてみよう、語ってみようという傾きがあったのではないか。それが、フロイトのいうところの一次過程、すなわち「圧縮」と「移動」に代表されるプロセスを前面に押し出したようなあの文体、あのエクリチュールに繋がるのではないかと、そんな考えが頭を過ぎるのです。しかし、鈴木先生へのお答えにはなっていないですよね……。

廣瀬  シュルレアリスムが入ってくると、答えにくくなってくる……(笑) ただ、フランス文学の研究史を考えるとメルロ=ポンティの哲学って、リシャールとか、プーレとかスタロバンスキーとかバルトとか、その辺りに大きく影響を与えてるわけですよね。リシャールの、奥行き、深さの概念であるとか。一言で言えば、後にエクリチュール論として展開するような、言語の自立性、その厚みや解読不可能性の問題です。それが、なぜ完全に消し去られてしまったかのほうが、逆に最近気になっています。プーレを読んだら面白いって誰に言えばよいのか・・。あれが、タブーみたいになってしまったことに対する疑問があって、ただ、プーレの「人間的時間」……ヒューマンですよね、そこにおそらく、メルロ=ポンティと比べても、限界があったのかな。だからマグマとか、「自然」であるとか、エレメントであるとか、そういったものの持つ、非人間的時間性や歴史性、さらには物語性については、語られていないのではないか。語りの技法やナラトロジーではなく、ふと気づくと語らされてしまう言葉の物語性です。モノローグでもあるような、あるいは一種幻聴でもあるような言葉。例えば、シモンで言えば『農耕詩』。ああいうのを評価するような視点を、文学研究は持つべきではないか。

鈴木  文学をめぐるディスクールが失ってきたある部分を、メルロ=ポンティがちゃんと持っているんじゃないか、という……。

廣瀬  そう。さらに、自然へと……。

鈴木  それは面白いですね。リシャールの話だと、つい蓮實重彦先生のいう「デリダのリシャール殺し」という話を思い出してしまいますけど、もっと別の方向でもそういうものを評価する必要があって、それをメルロ=ポンティが体現している部分があるかもしれない。言われるとそうかもしれないという気がしてきます。塚本さん、どうですか。

塚本  文学誉め殺しですね(笑)。でも、文学は明らかに衰退しています。現在の衰退の流れがどこからやって来ているのか、それがどのような方向に向かっているのかを、とにかく認識したいわけです。答えがないまま、さまざまな人文科学と文学との境界に身を置きつつ、その問いへの答えを探っているのですが、いまはただ問いかけがあるだけです。ひとつだけはっきりしているのは、1960年代はじめぐらいまでは、精神分析学者も哲学者も、文学を一つのレフェランスとして強烈に持っていたということです。それは確実に言えることじゃないでしょうか。

立木  精神分析家はいまでも文学を読んでいます。もっとはっきり言うと、文学は精神分析のパートナーであり続けていると思います。だからこそ、ちょっと暗い話になりますが、精神分析のポピュラリティが世界的に凋落傾向にあることは、現代社会において文学作品がなかなか読まれなくなっていることと連動している──と、私などは見てしまいます。そこにはおそらく必然性があります。そしてこの関係、精神分析と文学の関係は、たぶんこれからも変わらないでしょう。少なくとも、私自身も含めて、私の周りの分析家を見ていると、そう思います。




目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声