第3回 無意識と文学⑦
目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声
⑦ 垂直的な過去
中田健太郎 そんなにうまく質問をだせるという感じはしないんですけれど、よいでしょうか。話がもどってしまいますが、メルロ=ポンティの考える無意識には「事後性」がなかった、という立木先生のお話を、とても面白いなと思って聞いていました。「事後性」のない無意識というのはどういうものか、とも思うわけですが、廣瀬先生がご発表の最後のところであげられた、過去に向かったり未来に向かったりするような、過去と未来に同時にかかわるような作家の語り方というのが、まさに「事後性」のない無意識のあらわれ方なのかなと感じました。もう一点、重要だと感じたのは、過去と未来という軸とはべつの、垂直軸の問題です。垂直性というのは、理論的な言説と文学を同時に考えるときには、とても興味深い問題だと思います。廣瀬先生の今日のお話では、「垂直」という言葉のほかに、「濃密なマグマ」という表現もでてきました。下から吹き上げてくるようなそうしたイメージは、文学的な言語の起点のイメージにもなってきたという気がするんですけど、その「マグマ」のようなものって、どこから吹き上がってくるものだと考えられるんでしょう? つまり、垂直性はどこからやってくるのでしょう? 人間の中からだとすると、結局は無意識の話になるのでしょうか?
廣瀬 まず、完全に理解してくださってありがとうございました。垂直性の動機ということでしょうか?
中田 そうですね。垂直性の起点を、イコール無意識と考えてよいのか、ということですが。
廣瀬 過去−現在−未来という線状的で水平的な時間ではないということです。垂直なのは、現在でもあり得るわけですよね。垂直的な過去に立ち向かう垂直的現在。現在において、未来または過去から差し迫って来る、神話的というか自然的な時間に対する感受能力みたいなものが必要だということです。この感受能力は、無意識でもあるけれど、「知覚」でもあり、それゆえ神秘主義にはならない。彼は晩年にテレパシー、遠隔知覚に興味をもっていたということもありますけれど。最後に、これを言うともしかしたらメルロ=ポンティの自然の形而上学とか言われそうですけれども、感覚的世界の豊かさへの信憑っていうのは、もし無かったらメルロ=ポンティの哲学は全部壊れると思うんです。ですので、感覚的世界のfécondité(豊穣さ)が、意識に現前しない形で、地平として少なくとも「ある」っていうことに対する根源的な信憑。この信憑というか信仰は、つねに不信仰におびやかされているのですけれど。
中田 そうすると、現象学と精神分析の違いというのは……。
廣瀬 メルロ=ポンティ自身は、現象学も、精神分析も同じ潜在性や地平を探求しているんだって実は言っていて、タームは全然違うし、およそ方向も全然違うけれども、メルロ=ポンティはその二つを重ねようとしてたみたいですね。
塚本 その時の、切迫して来るものっていうのを、メルロ=ポンティは完全に分節化して、言葉にできると考えていたのでしょうか? つまり、切迫しているものを内在性の方へ、意識化する方向へ持っていけると……?
廣瀬 出来ないからこそ、だからその作業は無限に続くわけですね。その前提が崩れると、つまりすべてがテクストとして概念化されると考えると、メルロ=ポンティは全部崩れます。
塚本 それが、感覚的な場のfécondité(豊穣さ)、つまり言語化できない何かが存在する、それに向かって漸進的に迫っていくことしかできないということなのでしょうか?
廣瀬 それが、駄目って言われたら駄目です。
塚本 ありがとうございます。他に質問はないでしょうか。
立木 あのう、いま廣瀬先生おっしゃったことは、たしかに精神分析も共有しているのではないかという気があらためてします。感覚的な世界……いや、感覚ということばが適切かどうかは別として、私たちが世界を、あるいは現実を見ているということを、精神分析はどう捉えているかというと、その世界の裏側には無意識の幻想が広がっている、つまり、私たちは無意識の幻想に裏打ちされた世界を見ているのである、と考えるわけですね。しかし、ラカンが精神分析の終結=目的を「幻想の横断」と定義したように、精神分析が求める、あるいは期待するのは、精神分析というプロセスの果てに、その幻想との関係が変化することなのです。それは、ひょっとすると、「垂直的なもの」ともっと率直につき合えるようになることを意味するかもしれない。つまり、それが精神分析の目標であり、効果である、ありうる、と。ラカン派のいわゆる「パス」(学派に教える分析家を認定する手続き)を行った日本人は、いまのところ一人だけしかいないのですが、その人から話を聞いたことがあります。それによると、分析の終結を印づけた経験、すなわち、彼をパスの手続きへと進ませた経験とは、いままで現実と思って見ていた世界の表面が、まるで鱗が剥がれるようにヒラヒラと剥がれ落ちていくのが見える、というものでした。まるで精神病の発症契機と見紛うような体験です。しかし、これは先ほど廣瀬先生のおっしゃった、感覚的世界の豊かさが、その沈潜状態を破って、表面に現れてきた体験ではないかと思います。そしてそれは、精神病の経験と紙一重なのだ、と。そう考えてよいなら、精神分析のなかにも、感覚的な世界の豊穣さへの信憑が生まれる余地があるように思います。
鈴木 それ、パスの場でってことなんですか?
立木 いえ、この体験じたいは、パスの手続きのなかで起きたことではないと思います。セッションのなかで起きたか、日常生活のなかのある時点で起きて、セッションで報告されたかです。そしてそれが、彼の分析の終結を印づける体験であるとみなされたのです。彼自身によって、彼の分析家によって、そして彼のパスの手続きにかかわった人たちによって。感覚世界がどこまで豊穣でありうるか、ふだんそれを覆い隠している表面が突き破られたとき、どこまで豊穣でありうるか、ということの、ひとつの精神分析的パラダイムが、ここにあるように思われるのです。
鈴木 何か、塚本さんからまとめに持っていけるような話があれば……。
目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声