中村真一郎の会設立総会 報告

2006年4月22日(土)、東京駒場の日本近代文学館にて、「中村真一郎の会」設立総会および記念講演会と懇親パーティーがおこなわれた。
昨夏から何度か設立準備委員会がひらかれ、会則案や会費、会の運営等について入念に話し合いを続け、2月には概要が決まり、入会案内を各方面に送った。会の直前に、朝日新聞、毎日新聞(夕刊)、読売新聞、日本経済新聞等で会の設立と講演会の予定が報じられたこともあり、当日入会の方々もいたほどである。
結局、当日までの累計で、およそ250人が会員に登録。準備委員会の当初の予測を大幅に上回る数となった。
設立総会には、約百人が参加し、懇親会にも80人あまりの方々が出席した。以下はその報告である。

設立総会 (14時から14時55分まで)


午後2時から始まった設立総会は、そもそも会設立の発案者のお一人である清水徹先生が仮議長として議事を進行。
最初に一九五一年、東大文学部における中村真一郎の授業の思い出を語られた。クロード・エドモンド・マニー『映画と小説』を題材にしたその授業はすこぶる刺戟的で、英文科の学生だった丸谷才一先生も出席していたという。清水先生は多岐にわたる中村真一郎の業績を挙げる一方で、座談の名手だった故人の人となりについても触れられたが、それはこの会の設立に何よりふさわしい幕開けとなった。
ついで、清水先生による設立の経緯の説明のあと、会則、役員の選出(監事=中村稔、幹事=加藤周一等17名)などが滞りなく承認された。いったん休憩に入り、役員は別室で会長、幹事長、常任幹事を互選。総会再開後、以下の案が正式に認められた。

会長    加藤周一
監事    中村稔
幹事長  清水徹
常任幹事 安藤元雄 菅野昭正 清水徹 鈴木貞美 高遠弘美

ここで会長の加藤周一先生がご挨拶をなさった。その概略は以下の如くである(以下、すべての要約がご本人の意にそぐわないものではないかと恐れる。ご海容のほどをお願い申し上げたい)。
「私は満足しています。中村真一郎の最も古くからの友人の一人として、これほどの方々が中村真一郎のために集まって下さったことに、お礼を申し上げます」と語り始められた先生は、『1946文学的考察』の仲間だった福永武彦の最期を佐久病院で看取り、中村真一郎には、倒れた時から病院で息を引き取るまで附き添ったこと、そしてそれは偶然ではないように思われると仰言ったあと、中村真一郎の公的な面と私的な面の分析をなさった。
先生によれば、中村真一郎は日本語で書いた第二次大戦後の代表的な作家の一人である。そのよって来たるところは、第一に、縦糸と横糸に支えられた文学的教養の豊富さである。縦糸とはフランス語で言えば、diachronique ということになるだろうが、文学史を歴史的発展のなかで全体的に捉える姿勢であり、横糸とは日本文学、仏文学、英文学、独逸文学、ラテン文学、中国文学、江戸の漢詩を自在に横断する文学的態度である。かように polyglotte な文学者はそうはいない。第二に、多岐にわたる形式を採用したことである。ヨーロッパでも翻訳紹介されたラジオ・ドラマ、戯曲、映画原作(『モスラ』など)、独創的ですばらしいエッセイ、そしてその中心に位置する小説、詩など。平安朝の文学と江戸の漢詩を同時にあれだけ広くまた深く読めたのは、言葉に対する感覚と教養が群を抜いていたからである。
中村真一郎の文学を一言で語ることはできないが、あえてひとつだけ挙げるとすれば、サロンということである。十八世紀のフランスで発展したサロンは、一種の文学的感受性を生みだす場であった。それを十八世紀の大阪で具現したのが木村蒹葭堂である。中村真一郎が木村蒹葭堂を書いたのは文学者としての必然であった。中村個人もサロン的な場所が好きだった。それは中村が群衆の中の孤独を愛していたということでもあるだろう。加藤先生は「もう一度、皆さんに心から感謝します。中村真一郎を忘れないで頂きたい」という言葉で締めくくられ、会場から大きな拍手が沸き起った。
会長挨拶のあと、議事進行は幹事長の清水徹先生に託され、会則の一部訂正、予算案の承認がなされ、設立総会は幕を閉じた。
短時間の休憩のあと、設立記念講演にうつった。

記念講演会 (15時から17時まで)

黒井千次先生の講演・・
《高校生の時、農工大の文化祭か何かの講演会で中村真一郎の謦咳に触れた。それが生身の作家に触れた最初である。雨の日で、聴衆は7人前後しかいなかったが、中村さんは淡々と話を進めた。今でも記憶に残っているのは、中村さんが読みさしの岩波文庫をその頁が表に来るように折り畳んでポケットに入れたことで、作家というのはこんなふうに本を読むのかと思った。
後年、日本近代文学館の理事長に誰を推輓するかを中村稔さんらと相談して、中村真一郎しかいないだろうと頼みに行ったことがある。二つ返事で引き受けてくれたが、あくまで形式的なものと考えているものと思っていたら、さにあらず。中村さんは、毎回のように理事会に出席した。こんな仕事にも誠実なんだなと感心した覚えがある。
中村さんからは滅多に手紙をもらったことがなかったが、一度だけ、激しい叱責の手紙を頂いたことがある。それは明治維新後の近代文学の流れを、明治、大正、昭和でそれぞれ一人の作家を選んで、近代文学館が所有する資料を使い、展示するという企画に反対する手紙で、中村さんは、こんな選択は自分の文学史に対する考えと真っ向から反する、企画を変更すべきであり、さもなければ、自分は理事長を辞めるというのである。そのとき、私は中村さんの文学に対する真摯な情熱を知って心打たれた。
中村真一郎の小説は真善美社から出た長篇『死の影の下に』(1947)以来読んできたが、梅崎春生や椎名麟三など、ほぼ同時期に出発した戦後派の作家の中でも中村真一郎は際立っている。それは、ふつう短篇から中篇、長篇へと変貌を重ねるのに、中村真一郎はいきなり、長篇五部作(『死の影の下に』『シオンの娘等』『愛神と死神と』『魂の夜の中を』『長い旅の終り』)で出発したからである。こういう小説家は少ない。そのひとつの特徴は、戦後派作家がほとんど書かなかった「幼年時代」を書いていることである。それは分析の対象、観察の対象としての幼年時代を「回想」として描いている点で、カロッサに影響された師の堀辰雄の書く「幼年時代」とも異なっていた。長篇五部作のうち、最初の三作は手記形式だが、第四部になると、他の人物の視点の導入や視点の分からない書き方など、さまざまな描写方法が混在してゆく。第五部に至って、作者が小説の流れを遮るかたちで登場する。これは中村真一郎が、小説の方法(書かれ方)にはっきりとした自覚を持っていたことを示しているし、また同時にきわめて独創的なものだとも言える。最近、また中村さんの小説を読み直しているのだが、『恋の泉』のような「変な」小説も面白い。中村真一郎の文学はまだまだ説き明かされていない部分が多く、この会に期待したいと思う。中村さんは途方もない人であった。》
大要、以上のような興味深い講演で、終わると大きな拍手がおこった。

丸谷才一先生の講演

『雲のゆき来』は中村真一郎の最高の小説である。のみならず、日本文学が持ち得た貴重な成果である。それはなぜか。また、そこにみごとに結実した文学的離れ業をどうして『雲のゆき来』(1966)まで待たなくてはならなかったか。それらについて、中村真一郎があえて元政の作として引かなかった漢詩を挙げつつ、読書をしない、あるいは少なくとも本を読まないふりをする日本の近代文学の小説家たちの重圧と、中村真一郎自身にあった大正以来の随筆小説への偏愛を指摘して、まことに説得力のある講演だった。時折挟まれる皮肉で気の利いた言葉に聴衆は屈託のない笑い声を立てていた。
丸谷先生は朗読された原稿を「群像」に発表なさるとのことなので、曲解を避けるためにもここにて筆を止めておきたい。

懇親パーティ (17時30分から19時30分まで。
会場は東大内のレストラン「ルヴェ・ソン・ヴェール〔盃をあげて〕」)

安藤元雄先生の司会で会はなごやかに進んだ。
まずは日本近代文学館理事長の中村稔先生のご挨拶。先生は中村真一郎が座談の名手であり、相手をそらすことなく、愉しい話をしてくれたと話されたあと、「それでも美しい女性が好きでしてね、私と話しているときでも、向こうに美女の姿があると、ちょいと失礼と言って、さっさとそちらに行ってしまうんですよ」とも語られて、懇親会の席に集った人々の微笑を誘い、会の雰囲気はますます intime なものに変わった。
ついで、中村真一郎とは1938年以来の旧友である山崎剛太郎先生。自分の書くものをいつも高く評価してくれた中村真一郎は友人であるとともに、大切な恩人である。「真ちゃん」は他の人にしない話もたくさんしてくれた。「真ちゃん」がいなくなってほんとうに寂しい。しかし、このような会が出来て、中村真一郎の文学を顕彰しようというので、とても嬉しい。この会が長く続くことを祈っている。そう語られた山崎先生のお言葉に、会場の人々は皆うなずいたことだろう。
司会の安藤先生がここで自己紹介をかねて、中村真一郎の思い出を語られた。追分の堀辰雄の家に行ったとき、エアコンもない時代のこととて、団扇で涼を取っていたのだが、なかのひとつに中村真一郎が自作の俳句を書きつけたものがあった。

稲妻の団扇に消ゆるあつさかな   真

これは本に入っていないので、ここで紹介する、と。さすがに詩人らしい洒落たご挨拶であった。
乾杯の音頭は、お疲れのために帰られた加藤会長の代わりに、丸谷才一先生。「こういう場所が好きだった中村さんだから、どこかにいるんじゃないかと思います。乾杯」。
それから歓談が始まり、会場のあちらこちらに話の輪が咲いた。入沢康夫、富士川義之、川崎浹、沓掛良彦等の諸先生をはじめ、錚々たる文学者のお顔が行き来する。報告者酩酊。
一時間半ほどしてから、安藤先生による「中締め」があり、中村真一郎 未亡人佐岐えりぬさんがご挨拶した。
中村真一郎の会ができればいいと、夫の死後間もないころから考えて いた。このたび、交友関係の広かった中村の遺志に沿うかたちで、この ような会が設立され、多くの方々が会員になられたことはまことに喜ば しい。作家は生きているうちが花で、死ぬとその著書も品切れ、絶版に なることが多いという話も耳にする。今回の会をきっかけに、水声社よ り三冊、中村真一郎の本が再刊され、今後も出版が続いてゆくのは嬉し い限りである。世話人の方々、水声社の皆さまに心より感謝したい。

会場の人々から大きな拍手があり、会は無事に終了した。その後も去りがたく話し込む人々の姿が見られた。外はすっかり暗くなっていた。

-------------------------------- (2006年4月  高遠弘美)-------