ベンヤミンのロシア 《1》 |
桑野隆|プロフィール |
ヴァルター・ベンヤミンが愛し,自著『一方通行路』を捧げた女性アーシャ・ラツィス(1894―1972)は,回想録のなかで,1925年11月にリガへベンヤミンがやってきたときの様子を思い出しながら,つぎのように書いている。
ヴァルターは,人間と急成長中の技術との相互関係の問題をひどく気にかけていた。技術が人間を抑圧したり,人間の生を複雑にし,縮めるべきではない,と考えていた。むろん,ラジオ,映画,交通,工場のコンベヤなど,どんな技術革新もすばらしいものだ。けれども,発明品がそれらをつくりだす人たちと敵対するようなことがあってはならない。のちに,ベンヤミンはその著作のなかで,技術にたいして生じつつあるフェティシズムの問題を,幾度となく提示した。
(『赤いナデシコ』〔ドイツ語版の題は『職業革命家』〕)
むろん,これだけでは委細はとてもわからないが,おそらく,「複製技術時代の芸術作品」(1935年成立)へと結実するような問題を,このときすでにベンヤミンはラツィスに懸命に語っていたのだろう。
他方,ベンヤミンは,1936年1月26日にパリからアルフレート・コーンに送った手紙のなかで,「複製技術時代の芸術作品」に関連して以下のように書いている。
ぼくは前述の綱領的論文を目下モスクワに送っており,それがロシアで公刊されるかどうかに注目している。その可能性はある。といっても,公刊されるとなれば,されないときよりもぼくは驚くだろうが。
(『ベンヤミン著作集 15/書簡Ⅱ,1929-1940』晶文社)
あるいはまた,同年4月15日付けでやはりパリからキティー・マルクス=シュタインシュナイダーに宛てて出した手紙では,「あの論文はあるべき場所で,つまりロシアで,いちばん不評だと言いきれそうだ」(同)と記している。
1936年のロシアといえば,ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「フォルマリズム」や「メイエルホリド主義」との非難を浴びるなど,政治面だけでなく文化面でもスターリンによる統制がいよいよ苛烈をきわめてきたときであり,またベンヤミン自身,すでにこうした現状をかなり承知していたにもかかわらず,それでもなお,「複製技術時代の芸術作品」はロシアでこそ公刊されるべきと記している。芸術と人間の関係や,芸術と社会の関係が大きく変わりつつあることに関心を抱いていたベンヤミンにとって,ロシアは,恰好の具体例であったばかりでなく,もう一方の具体例であるファシズムへの最大の対抗勢力に転じうる可能性もまだ微かに秘めていたということであろうか。
もっとも,ラツィスはこの二年後の1938年に逮捕され,48年まで強制収容所生活を余儀なくされている。また,改めて確認しておくならば,「複製技術時代の芸術作品」の最後のくだりの「芸術の政治化」のモデルも,おそらくブレヒトであって,ロシア
・アヴァンギャルドではない。
「芸術ヨ生マレヨ――世界ハ滅ブトモ」とファシズムはいい,マリネッティが信条とするような技術によって変えられた知覚を,戦争によって芸術的に満足させるつもりでいる。これは明らかに,芸術のための芸術の完成である。かつてホメロスにあってはオリンポスの神々の見物の対象であった人類は,いまや自己自身の見物の対象となってしまった。人類の自己疎外は,自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は,そういうところまで来ているのだ。コミュニズムはこれにたいして,芸術の政治化でもって答えるだろう。
(『ボードレール他五篇/ベンヤミンの仕事 2』岩波文庫)
しかし,私としては,ロシアこそ「複製技術時代の芸術作品」が「あるべき場所」であるとのベンヤミンの言葉を手がかりに,いまいちどベンヤミンとロシアの関係を見直してみようと思う。より正確にいえば,ベンヤミンにとってのロシアである。それはまた,ベンヤミン的視点から見たロシアの見直しともなるであろう。
1 モスクワから持ち帰ったもの
やはり,まずはベンヤミンのモスクワ体験を振り返ることからはじめることにしよう。
ベンヤミンは,1924年5月にカプリで,「リガ出身でボリシェヴィキのラトビア女性」アーシャ・ラツィスと知り合ったころから,共産党に加入すべきではないかと,思いをめぐらしていた。そして26年12月,ラツィスに会いにソ連に赴き,ソ連を自分の目で見て確かめようとする。12月6日から翌27年2月1日までのモスクワ滞在の間の『モスクワ日記』(邦訳,『モスクワの冬』晶文社)とエッセイ「モスクワ」には,ベンヤミンが見聞したことや人々との出会いがつぶさに記されている。しかし,この二篇から,ベンヤミンのその後の思想の展開と関連づけられそうな点を引き出すのは,かなりむずかしい。というか,それほどないと言うべきかもしれない。
ただし,そのことはベンヤミンの慧眼を否定するものではむろんない。モスクワについて二十日目の12月26日付けでユーラ・ラートに宛てて出された手紙では,「ロシアが近くどうなるかは,まったく予測がつかない。もしかしたら現実に社会主義的な共同体ができるだろうし,もしかしたらぜんぜん別のものができるだろう。この点を決する闘争は,いま不断に進行している」と述べている(『ベンヤミン著作集 14/書簡Ⅰ,1910-1928』晶文社)。
この認識は的を射ている。当時のロシアでは,すでにスターリンが主導権を一手に収めつつあり,トロツキイをはじめとする〈反対派〉にたいする風当たりが政治,文化面で勢いを増してきていた(トロツキイは27年11月に党から除名された)。こうしたなか,ベンヤミンは,ラツィスや,あるいはまた二六年にソ連にきていた演劇評論家ライヒの手引きにより,さまざまな人と会っていくが,そのほとんどが〈反対派〉である。ベンヤミンが,当時の訪ソ者の多くとはちがって,ソ連に批判的距離をとることができた背景には,付き合いのこうした「偏り」もあげられよう。
また,文化状況に関しても,興味深い評価がいくつか見られる。たとえば,二十世紀ロシア文化の昨今の論じ方の一パターンに,ロシア・アヴァンギャルドとスターリン文化(あるいは社会主義リアリズム)との連続性の強調があるが,ベンヤミンは,当時すでにロシア・アヴァンギャルドが終焉を迎えていることを見抜いていた。「英雄的なコミュニズムの時代だったならば指導的地位を占めたであろう左派著述家の切り捨てについて」や「反動的農民芸術の奨励(アフルの展覧会)について」語りあったり,古典的芸術の知識の普及に触れたり,「戦時コミュニズムの期間に,グラフィックなプロパガンダを革命のために用立てた構成主義者,スプレマチスト,抽象主義者たちは,とっくにお払い箱になっている」と報告している。こうしたことからすれば,スターリン文化によるロシア・アヴァンギャルドの継承など,きわめて考えにくい。また,映画などの検閲の厳しさも指摘している。(日記とエッセイ「モスクワ」からの引用は,原則として,『モスクワの冬』と,『ベンヤミン・コレクション 3/記憶への旅』〔ちくま学芸文庫〕に拠る。以下も同様)
ベンヤミンがロシア・アヴァンギャルドのほうに与していることは,メイエルホリドの芝居に何度も出かけ,個人的にも付き合い,そして先のユーラ・ラートに宛てた手紙でも「メイエルホリドによる上演だけが意義がある」と記していることからも,明白である。これは,ラツィスがメイエルホリドと親しかったことも関係しているが,その点についてはまたあとで触れることにしよう。
ともあれ,ベンヤミンがその眼で確かめようとしたロシアは,明らかに岐路に立っていた。また,ロシアにたいするベンヤミンの態度も揺れており,ロシア革命を支持しながらも同時にまた,革命の後退も確認し,スターリニズムの台頭に不安を覚えてもいる。
こうした状況をめぐる12月30日の日記は,いかにもベンヤミンらしい。
戦闘的な共産主義の中止を試みているのだ。そして,一時的に階級間の平和をめざし,市民生活から政治を可能なかぎり遠ざけようとしている。他方,ピオネール連盟や青年共産同盟では,若者は「革命的な」教育を受けている。このような事態は,若者には革命的なものが経験としてではなくスローガンとして植えつけられる,ということを意味する。生活のなかの政治的側面から革命の過程の力学が排除されようとしているのである。望もうと望むまいと,すでに復古の方向に進んでいるのだが,そうした実態を無視して,バッテリーに電気を貯えるように,青少年に革命のエネルギーを貯えようとしているのであって,これは無理というものだ。
革命のダイナミズムが失われ,「復古の方向に進んでいる」ことを,しかと捉えている。ベンヤミンからすれば,「経験」を欠いたままの「スローガン」は虚しい。逆にいえば,そうした「経験」を生き生きと「記憶」しているからこそ,政治のアヴァンギャルドも芸術のアヴァンギャルドも排除されていく。
このような,ある面では(ラツィスへの愛のかたちも含めて)期待を裏切られたとも言えるモスクワ滞在を通じて,結局,ベンヤミンは何を得たのであろうか。先にも断ったが,実を言うと,それは日記やエッセイからはよくわからない。ベンヤミンがロシアを本格的に活かしはじめるのは,帰国直後ではなく,それよりも数年あとのことである。(こうした「変化」には,ラツィスを介してのブレヒトとの出会いも大きな要因になっていようが,これについては,トレチャコフとの関係も含めて,のちに触れることにしよう。)
ただ,ベンヤミン自身の1月30日の日記には(書かれたのはベルリンに戻ったあと),こういう一節もある。
ベルリンはモスクワから来た人間にとっては死んだ街だ。……都市と人間の肖像については,精神的状況の肖像と同じことがいえる。そしてこの精神的状況をとらえる新しい視覚を得ることこそ,ロシア旅行のもっとも確かな収穫である。ロシアについてごくわずかのことしかわからなかったとしても――人がロシアで学ぶのは,ロシアで現に起こっていることがらについて知っているのだという意識をもって,西欧を観察し判断を下すことである。……それゆえ見方を変えれば,ロシア滞在は外国人旅行者にとってはじつに恰好の試金石ということになる。ロシアでは誰もが自分の立脚点を選びかつ厳密に規定することを強いられる。
エッセイ「モスクワ」でもほぼ同様のことが語られ,「決断した者だけが,何かを見ることができる」という「新しい光学」が意義づけられている。この「光学」自体はモスクワに赴く前からベンヤミンに備わっていたといえなくもないが,ロシア経験が,「世界との弁証法的な講和を自分なりに結んだ者だけが,具体的なものを把握できるのである」と,いっそう明確な「決断」を強いている。
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実は,ベンヤミンがモスクワ滞在で得たものは,少なくとももうひとつはある。それは,前記のような「思考」そのものではない。もっと明瞭で,『モスクワ日記』を読んだ誰の眼にも飛び込んでくるもの,すなわち玩具である。滞在の最初から最後まで,暇さえあれば,(ライヒやラツィスを苛立たせ,うんざりさせながらも)玩具を買い集め,あるいは玩具博物館にも再三でかけている。それはもう,「玩具狂」としか呼びようのないすさまじさである。
ベンヤミンによれば,「ロシアこそ,もっとも豊かで,もっとも変化にとむおもちゃの国」である(「ロシアのおもちゃ」〔『教育としての遊び』所収,晶文社〕)。「仕上げられたおもちゃではなく,おもちゃを生みだした心,おもちゃ製作の全過程が,おもちゃで遊ぶ子どもには,手にとるようにわかるのだ」とか,「子どもが知りたがるのは,まさに全体のつくりである。それを知ってはじめて,子どもはおもちゃとの生き生きとした関係をむすぶ」とベンヤミンが述べているのは,もちろん「おもちゃ」にのみ当てはまることではない。いうなれば,世界認識モデルとしての「おもちゃ」である。そう考えると,ロシアでこそ,執拗なまでに玩具を蒐集していたベンヤミンの行動も,納得がいく。
また,地方産の人形について,「モスクワの博物館に安全な隠れ家をえたことは,結構なことである。なにしろこの民芸品だって,現在ロシアを横断して凱旋行進中の技術のまえで,どれだけ負けずにもちこたえられるか,わかったものではないのだから」と述べているのも,興味深い。ここには,まもなく消滅すべき運命にあるものを救おうとする蒐集家ベンヤミンの気持ちが,あからさまに出ている。技術にもてあそばれ,平板化され,「関係」を失うくらいなら,記憶を保つためにはむしろ博物館でもいいのだ,というわけである。そこでだって,意味ある「出会い」は可能だと言いたいのであろう。むろん,手で直接触れられれば,もっとうれしい。新生の儀式にみずから立ち会うことになるのだから。エッセイ「蔵書の荷解きをする」のなかでベンヤミンは,「真の蒐集家にとって一冊の古い本を手に入れるということは,この本の新生にほかなりません。そしてまさにこの点に,蒐集家の老人的な性質と浸透しあっている,その子供的な性質が存しているのであります」と述べている(「蔵書の荷解きをする」〔『ベンヤミン・コレクション 2/エッセイの思想』所収,ちくま学芸文庫〕)。
同時にまた,ベンヤミンのこうした玩具観は,のちの「エードゥアルト・フックス――蒐集家と歴史家」(1937)で述べられることになる「歴史的唯物論」をも想起させずにおかない。
過去の作品……は,歴史的唯物論者にとって自立的に自己完結してはいない。どの時代に向かうときにも,彼はその作品が――そのいかなる部分においても――,物のように手軽なかたちで懐に転がりこんでくるものとは見なさない。その作品が生まれた生産過程と無関係に,というほどではないにしても,それが生き存える過程とは無関係に考察される形成物の総体としての文化の概念は,彼にとっては物神的特徴を帯びている。この文化は物象化されて立ち現われる。この文化の歴史は,人間の意識のいかなる真正な――すなわち政治的な――経験によっても探り出されてはいない,そのような記憶項目が形成してきた沈殿物以外の何ものでもないだろう。
(『ベンヤミン・コレクション 2』)
「その作品が生まれた生産過程」,「それが生き存える過程」と関係づける,言い換えれば「物質に孕まれた記憶を甦らせる」,そうしてはじめて,文化の歴史は十全なかたちで語りうる,というわけだ。このように考えてみると,ベンヤミンがモスクワから持ち帰ったたくさんの玩具にもまた,その後のベンヤミンの思考の芽がいくつも詰まっていたのかもしれない。
(以下次号)■