オルフェウス的主題《1》

野村喜和夫|プロフィール

一冊の本を夢みて


一冊の本を夢みて,書き始めようと思う。題はすでに決まっていて,『オルフェウス的主題』という。書こうというきっかけ,というかはずみを与えてくれたのは,意外にも現代日本の少々とんがった作家である。

舞城王太郎だ。その『好き好き大好き超愛してる。』(講談社,2005)という小説。200枚だから長めの中編といったところだろうか,タイトルがなんとも奇天烈な,日本文学史上最低最悪といってもよい代物で,それが初出は『群像』という純文学系文芸誌の2004年新年号にのったのだから,何だこれは,とわが眼を疑った人も少なからずいたのではないだろうか。

それもそのはず,舞城はメフィスト系と呼ばれもするらしい若手の作家の一人で,『好き好き大好き超愛してる。』は,エンタテイメントと芸術を区別しないそういう新傾向の作家が,大げさにいえば旧来の純文学の牙城に殴り込みをかけた記念すべき作品だったのである。しかし中味もまた,破天荒ぶりが群を抜いているこの作家の,なんといえばいいのか,おとぎ話のようでもあり,おとぎ話を仮装した私小説のようでもあり,私小説を仮装した恋愛論のようにも読める,つまりは舞城的というほかないような作品だ。

主人公の「僕」は若い小説家で,骨肉腫というガンで死んでしまった恋人,柿緒との交流を語る。柿緒の生前,二人はほんとうに深く愛し合っていて,彼女が発病してからも「僕」は病院に通いつめて家族顔負けの看病をしながら,かたわらで小説を書きつづけるのだ。ある日,死期が近いことを悟った柿緒は,まる一日病室を抜け出して,ずっと後々まで「僕」に謎解きを強いるような「秘密」をつくる。それだけではない。代行業者を通じて,自分が死んでからも毎年一通ずつ,「僕」の誕生日の前日に自分からの手紙が届くようにする。しかも百通も書いたので,このさき百年は届くことになるのだ。

こうして恋人との交流は,彼女が生前に仕掛けた謎めいた行動と「百年百通の手紙」によって,遠く「僕」の将来にも及ぶだろうという,これが主ストーリーで,この主 ストーリーはところどころどうしようもなく通俗的に語られており,なのに悪びれたところがないのは,主ストーリーと交錯する三つのSF的な寓話「智依子」「佐々木妙子」「ニオモ」が,それぞれにちょっと余人にはマネできないような奇天烈な代物であることを,作家あるいは作品自身が確信しているからであろうか。だとすれば空恐ろしい。

最初の寓話は光を発する小さな虫に体を食い荒らされる女の子の話で,虫はあきらかにガン細胞を寓意してのイメージだろう。二番目の寓話は,初恋の女の子が「僕の夢から,夢荒らしによって僕の知らないうちに連れ去られ」「誰かの夢の中に行ってしまった」話。僕は彼女を捜し出し自分の夢のなかに連れ戻そうとするが,むなしい。そして三番目の寓話は,「ろっ骨融合」したアダムとイヴたちがハイテク戦闘機のように出撃して空の神と戦うという,奇想天外を絵に描いたような話で,「僕」のイヴである「ニオモ」はその戦いのなかで死んでゆく。

とまあこんな具合で,いずれの寓話のヒロインもデフォルメされた柿緒の姿とみてよく,逆に言えば,そういう幻想の衣を被せられることによって柿緒は,ありがちな難病ものの悲劇のヒロインから,神話的形象に近いある種の普遍的性格を与えられ,と同時に,物語の空間も不思議な奥行きを帯びるにいたっているのである。ついでながら,現代風の言文一致を意識したのだろう,ところかまわず触手をひろげる生命体のような文体も魅力的だ。

さて,ここからが本題なのだが,この作品,ふだんあまり小説などは読まない私にも不思議な印象と感動をもたらしたのであり,それはなぜだろうと考えるのである。もとより舞城王太郎という強烈な物語作家の力によるところ大ではあろうが,それだけではないような気がする。どこかなつかしいような,どこかこちらの魂の奥底にふれてくるような,そしてそこにしまわれているはずの,生と死をめぐる本源的な経験を呼び覚ましてくれるような。

それはつまり,オルフェウスの神話である。「僕」が心から愛していた柿緒,彼女は「僕」を残して死んでしまうが,「謎づくり」や「百年百通の手紙」によって,いつまでも「僕」の思い出を支配し,「僕」の生にかかわりつづける――それはさながら,エウリュディケーの影を背にくっつけたまま地獄から生還してしまったオルフェウスの物語のようではないか。あるいは,柿緒のそのようなアクションは,みずからをエウリュディケー役に仕立てることによって,「僕」にいわばオルフェウス的負荷を与えているというようではないか。だとすれば,三つのSF的な寓話の謎もたちどころに解ける。それはつまり,オルフェウスの地獄下りの三つのバリエーションなのだ。

夢のなかで,僕は彼女を求めて歩く。そうしていることに気づくことが夢だと気づくことになる。夢の世界に入れたことで,彼女との距離は縮まり,彼女の存在はリアルになっている。僕は喜ぶ。夢の中にいれば,すくなくとも彼女に会える可能性だけは出てくる。外の世界ではありえない。彼女の顔などは相変わらず思い出せない。僕はただひたすら自分の愛情がリアルになることを楽しんでいるだけなのかもしれない。

第二の寓話「佐々木妙子」の章から引いたが,このくだりなどは,「夢」を「地獄」と置き換えれば,エウリュディケーを連れ戻すさいのオルフェウスの不安な心の揺れそのままである。

もうひとつ,主人公が小説家つまり芸術家であるという設定もオルフェウス的主題にかなう。というのは,もちろんオルフェウスもまた竪琴の名手つまり芸術家であり,のみならず,とくに西洋文学の伝統のなかでは長いあいだ詩人の代名詞のように扱われてきたからだ。「僕」はただ柿緒を愛したのではない。愛しつつ,かたわらで小説を書いていたのであり,小説を書くことと柿緒を愛することとどちらが大事なのかと自問したことさえあり,このさきも,つまり柿緒が死んでからも,彼女への喪を貫きつつ小説を書いてゆくだろう。

僕は柿緒のあの日のことをよく考える。で,ふと僕は,柿緒があのときあんなふうにして出かけて内緒のままにしているのは,まさしく僕にそのことを考えさせるためであって,柿緒が逝ってからも僕に柿緒のことを考えさせるためじゃないかなと思う。それを考えることが柿緒を愛することと同じなら,僕は柿緒の思惑通りに柿緒を好きなままで忘れられずに何度も何度も繰り返し愛しているのかもしれない。柿緒がいなくなってもうだいぶ経つけど僕は今でも柿緒を探している。愛している。物語を紡いでいる。

最愛の恋人を失い,悲嘆に暮れる男。だが作家である彼は,作品を書くことを通じて,愛する者をいつまでも思い出しつづけようとする。それが喪に服するということだ。そしてまたそれが,オルフェウス的主題のはじまりということでもある。舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』という不思議な魅力を放つ異色作は,こうして,実はオルフェウス的主題の今日的変奏のひとつを成しているのである。逆に言えば,現代日本のどちらかといえばポップな文学にまでオルフェウスの神話は及んでいる。

とすれば,ふと私は思う。オルフェウスの主題を追って,あらためて世界や日本の文学を横断してみるというのはどうか。そう,一冊の本を夢みて。もとより私は神話学者でも批評家でもないので,いたって気ままな渉猟の旅という感じになるかもしれないが,それでもよいと考えている。学問的な厳密さとか比較文化論的な視点とか批評的なアクチュアリティとかを云々する以前に,最終的には私が詩を書いているいまここの場所にまで立ち戻ってきて,詩の困難なこの時代に,あらためて詩とは何か詩人とは誰かというような,いってみればすぐれて時間錯誤的な問いを発してみることができたら,それにまさる帰結はないと考えている。とはいえ,いま思い描くことのできるプランは,たとえば以下のごとくだ。少し大風呂敷を広げて,連載への景気づけとしたい。

まず第一章では,私が比較的親しんできたフランス現代詩から,アンリ・ミショーの長詩「われらいまも二人」とか,イヴ・ボンヌフォワの『ドゥーヴの動と不動』とかを読み直してみようと思う。前者は焼死した妻を悼んだ作品で,ストレートに痛ましい。後者の場合は,ドゥーヴという謎の女性の死をめぐって,詩による再生の儀式が執り行われているといった趣がある。そのあとさらに,喪に服するという主題を徹底させた特異な書物として,フィクションではないが,やはり現代フランスの詩人ミシェル・ドゥギーのエッセイ『尽き果てることなきものへ』を取り上げてみようと思う。妻をガンで失った詩人が,彼女を忘却の淵に沈めまいとして,彼女とのことをひたすら書きつづり,いわば終わりなき喪のエクリチュールへとみずからを追い込む。そんな試みをしたところでふつうの人にとってはなんら生産的ではないかもしれないのに,詩人にとっては,そのオルフェウス的行為こそが何にもまして切実なのである。

読者はこのあたりで,しかしそもそもオルフェウスとは誰かと問いたくなっていることだろう。私とて同じだ。そこで私は,ギリシャ神話まで遡り,オルフェウス神話そのものを紹介し検討する。もちろん,その類型である『古事記』のイザナギ・イザナミ神話とも比較対照させながら。その結果,オルフェウス的主題は三つの局面あるいは段階をもつことになろう。ひとつは,最愛の者の死という局面。もうひとつは,服喪という局面。主体は悲嘆に暮れ,どこまでも喪に服そうとする。その想像力による置き換えがすなわち地獄下りというこの主題のクライマックスである。闇のなかを主体はさまよい,きりもなく問いを発する。そして最後に,主体自身の死という局面。この三つの局面それぞれは独立したテーマとなりうるが,どんな場合でもベースになるのは,主体が詩人あるいは芸術家一般だということである。竪琴の名手オルフェウスがなんとか地獄から妻エウリュディケーを取り戻そうとするのは,その比類のない演奏(詩人でいえば詩作,エクリチュール)を通してであり,また彼女を未来永劫に失い,自身トラキアの娘たちに殺されることになるのも,芸術家としてのおのれの宿命と切り離せない。言い換えれば,オルフェウス的主題を貫いて,詩と死の二重旋律が絶えず底流していることになる。

この予備的考察のうえに私は,西洋文学におけるオルフェウス的主題の変遷をひととおり辿るだろう。第二章だ。オウィディウス,ウェルギリウス,ダンテ。といっても,私の学識はきわめて限られているので,叙述の中心は近代以降のフランス文学ということになる。ネルヴァル,マラルメ,コクトー,シュペルヴィエル,ブルトンといった名前が浮かぶ。もっともポピュラーなのは,みずから映画化もした『オルフェ』の作者コクトーの場合であろうが,鏡を抜けて地獄に赴くという設定は,ナルシシストのコクトーにいかにもふさわしいが,しかしかえってオルフェウス的主題のほうは底が浅くなってしまったようだ。つまり通俗的だということである。逆に,ブルトンの『ナジャ』においては,ナジャはまだ生者ながら,詩人が彼女に導かれるようにしてさまようパリの夜々は地獄下りの様相を帯び,そのなかで永遠にナジャを失い(彼女は精神病院に収容される),ひとり現実に取り残される詩人の孤独は真にオルフェウス的である。

オルフェウス的主題のうち,詩人の制作行為というフェーズをもっとも深く掘り下げたのが,おそらくマラルメであろう。彼が夢見た「地上のオルフェウス的解明」とは何なのかを,私なりに理解したい。第三章だ。なおそして,私の守備範囲ではないが,リルケの『オルフォイスへのソネット』も見逃すわけにはいかない。記憶によれば,たしかモーリス・ブランショがその『文学空間』において,この二人の詩人を,まさしくオルフェウス的な問題圏,つまり詩と死と彷徨の相のもとに考察してはいなかっただろうか。

つぎに私は,第四章,わが日本文学に眼を転じて,オルフェウス的主題の反映と変奏のさまをみてゆくだろう。古典では,たとえば『源氏物語』において光源氏が紫の上を失い悲嘆に暮れる場面があるが,喪は無常観に包摂されている。個人的な喪がそれとして文学で扱われるのは,高村光太郎とかやはり近代になってからではないか。そして,オルフェウス的主題の発現という意味でも特権的な位置を占めるのは,なんといっても宮沢賢治である。妹トシの死とおのれの制作行為と自分たちの魂の救済とはどう結びつくのか。その課題を追って,詩人は「永訣の朝」を,「青森挽歌」を,なかんずく『銀河鉄道の夜』を書く。この作品においてオルフェウス的主題は,空前にして絶後ともいうべきスケールと深まりと美とを得るのである。

最終章はそして,戦後の現代詩に充てられるだろう。たとえば清岡卓行における,愛する者の死と服喪という典型的フェーズの展開。天沢退二郎における,世俗化された地獄下りともいうべき夢のなかの無限の彷徨。だがとりわけ,前述の宮沢賢治の影響を受けた入沢康夫が,地獄下りのテーマを繰り返し取り上げ,詩と死の関係,あるいは詩人の制作行為と鎮魂の関係を追求してやむところがない。あるいはまた,吉増剛造における,みずから万象の声の捕獲装置となって諸言語の襞に分け入ってゆくというような,オルフェウス的身振りの極限的なきわだちも,この主題の到達点のひとつとして私を待っているだろう。

(以下次号)■

野村喜和夫(のむら・きわお)
1951年,埼玉県生まれ。詩人。『風の配分』,詩集『川萎え』。