秋の哲学・名と呼ぶこと
無明のフィロソフィア《2》

小林康夫|プロフィール

“L'automne déjà !”(もう秋か)と,まずは呟いてみる。そうすると,わたしの口をついて続くのは,もちろん,“― Mais pourquoi regretter un éternel soleil, si nous sommes engagés à la découverte de la clarté divine.― loin des gens qui meurent sur les saisons”(しかしなぜ永遠の太陽を惜しむのか,もしわれわれが神的な明の発見に携わる身なのなら……季節の上で死んでいく人々からは遠く離れて)――わたしが,そう,まだ二十歳にもならない前に,最初に覚え,暗唱したフランス語の文章のひとつである。以来,わたしにとっては,秋という季節は,つねにこの「永遠の太陽」と「季節」,あるいは「神的な明(もちろん「光」でもある)」と「死」との強烈なコントラストのイメージに結びついている。いうまでもなく,これはランボー『地獄の一季節』の末尾に置かれた詩「訣別」の冒頭であり,人間的な,あまりに人間的な地獄の一季節が終わって,もう秋! 新しい季節の訪れとともに,自分は,「光輝く街に入り」,そこでは「ひとつの魂とひとつの身体のうちに真理を所有することができるだろう」と高らかに,あるいは切なく,うたいあげる最後のアリアのはじまりである。


恥じらいの気持ちなしにではなく告白しておくなら,今から振り返ってみるに,わたしに「真理」という理念を決定的な仕方で刻印したのは,ほかでもないこのテクストであった。わたしは,その当時も今も,ランボーのこの「訣別」を,そしてかれがわざわざイタリックで強調している「ひとつの魂とひとつの身体のうちに真理を所有すること」を,単純未来形で書かれたその最後の非望を,現実としては,少しも信じてはいないが,しかしそれがゆえにいっそう「真理」へのかれの絶望的な,しかし激しい憧憬に魂を鷲づかみにされた心地がした。そしてその傷はいまだに癒えずに残っている。わたしが,こうして,このあてどのない無謀なエクリチュールに身を投げ出そうとするひとつの淵源は,疑いもなく,この傷にあると言うべきだろう。「真理」を生きる,つまり,ほとんど生きることの不可能な真理を生きるというパラドックスそのものにほかならない奇妙な探求の夢をわたしに植え付けたのは,こうした言葉だったのであり,だからこそ,わたしがこの無明のエクリチュールを開始したときに呼び出され,思い返されなければならなかったのがランボーのいくつかの言葉の響きであったのは,また必然でもあったのだ。


そう,だからわたしは呟く,「もう秋か!」――そうすると,やって来るものがある。やって来ることがある。すなわち,意味が,意味の出来事がやって来る。つまり,言葉がやって来る。奇妙なことに,この言葉を呟いたのは,わたし自身であるのに,それでもなお,それは,どこからかわたしの方へとやって来るように思われる。つまり,どこからか,わたしではないどこからか,未だ来たらざる未来から,しかし遠くの未来ではなく,ごく近いところからやって来るのである。言うということは,わたしが言うのであれ,他の誰かが言うのであれ,意味がやって来るようにさせることである。言葉は,もうそれだけで,純粋に――ということは,それが記述し,預‐言していることが現実に起こるかどうかとは別の次元で――意味が来つつあるようにすることである。いや,おそらく意味とは,そのように未だ来ない未来からなにかが近くに来つつあること,その近さの《来ること》なのである。


前章で,わたしは《まだ,ない》未来の時間が裂開として開かれることが,自由という人間の根源的な存在様式に本質的であると措定したが,この裂開はなによりも言葉を通して,言葉において起こると言えるだろう。言葉がなければ未来はない。すなわち,言葉というこの意味の到来,到来しつつある意味なるものが可能であることと,未来が可能であることとは同じ次元に属しているのだ。人間は未来に向かって開かれて存在している。その開けはまた言葉の開けである。そしてそれは,なによりも,言葉が《来るもの》であるからなのだ。少し性急すぎることを承知でとりあえず言い放っておくならば,それが《来るもの》であるからこそ,それは,まさに誰々というわけでは必ずしもない他者なるものからこそやって《来る》のである。つまり,言葉こそが,他者なるもの一般を人間に可能にしているのであり,言葉のうちで未来という裂開の時間と他者への裂開とが撚り合わされているのである。


実際,ことばは,まず,やって来る。われわれは誰でも,みずから話し出す前に,やって来ることばを聴くことからはじめる。ことばは,本源的に《来るもの》として,近くの他者から《来るもの》としてわれわれに与えられるのだ。いや,それどころか,そのことばの《来ること》こそがわれわれに存在の近さを,近さという存在のあり方を可能にしてくれるのだと言ってもいいだろう。ことばが来るものであるということは,それが,方向――フランス語で「方向」と「意味」とを同じ語で言いうることをわたしは羨まざるをえない――を持っているということである。それは,それが来る方向から,それが向かっていく方向へと来る。そして,その宛先性――「アドレス」(address)という語を当てておこうか――こそが,たとえば身体というわれわれの物理的―生理的な存在者としてのあり方や限界を超えてわれわれのなかに浸透し,そうして,「なか」なるものを可能にし,つまりは,われわれがそこに存在する「近さ」を与えてくれるのだ。「近さ」とは,だから,われわれの「外」の相対的な距離のことなのではなく,そこではそういった距離が消去され,そのもはや「内」でも「外」でもない次元において,物理的―生理的な距離とは異なる「近さ」が構成されるということなのだ。


「ことば」という表記を用いたのは,もちろん,それがわれわれが普通には「言葉」と分類しないかもしれないもっと広大で多様な,《言葉以前的な》現象までを含みうるようにするためである。そう,たとえば言葉にならない息,眼差しも,また広げられた腕や手も,それがわたしに差し出され,わたしに宛てられているならば,すでに《来つつある意味》であり,どんな言葉以上にすぐれて「ことば」であるはずだからである。いや,むしろ,こうした「ことば」なしにはどんな言葉も不可能だと言うべきだろう。わたしの眼をじっと見つめる注意の眼差し,わたしに向かって発せられた声,わたしに意味を届かせ共有しようとするアドレスの意志,わたしの理解を見届けようとするその微笑……それらこそ,わたしに言葉を可能にし,つまりわたしが生涯,ということは永久にそこに棲むことのできる「わたし」という近さの場を開いてくれたものなのだ。


ことばがアドレスされることによって,わたしははじめて,他者によって呼びかけられる者として存在することができる。これもまた性急すぎる言い方だが,人間にとっては,呼びかける存在であり,呼びかけられる存在であることほど重要で本質的なことはない。人間は呼びかけられ,そしてその呼びかけに応えようとする。その呼びかけるものが,〈神〉であれ,〈良心〉や〈正義〉であれ,〈超自我〉であれ,あるいは〈母〉であれ,〈他人〉であれ,さらには――困ったことだが――〈独裁者〉であれ,〈自分のなかの他者〉であれ,〈悪魔の声〉であれ,いや,もっと平凡になんらかの世間的な〈スター〉であれ,つねに呼びかけられるものとして存在しているのだ。呼びかけは,われわれの存在のもっとも奥深いところにまで達する。それは,すべての人間の文化の最深部,そして同時にその表層をも覆っているのだ。


おそらくわたしは,今後,人間文化のこの根底を形成している呼びかけという次元に何度も戻ってこなければならないだろう。だが,現在の段階では,ただちに広大な文化の領域に踏み込むのではなく,言葉というこの根源的な可能性が人間に開かれるその場について,つまり呼びかけという行為に対して開かれ,開かれることで形成されるわれわれの存在について,考え続けることにしよう。


呼びかけるということは,究極的には名を呼ぶことである。存在に呼びかけるということは,名としてある存在を呼ぶということである。呼ぶとき,そこには名がある。呼ばれるとき,それは名が呼ばれるのだ。その意味では,名と存在とを厳密に区別することは困難だ。名という言葉のもっとも根源的な可能性とは無関係に,名なしののっぺらぼうの存在があって,それに後からレッテルとして名がつけられるというのではない。名とは,たとえ後に社会のなかで他との識別のために役立てられることがあろうとも,その根源においては,あくまでも呼びかけそのものなのであり,呼びかけられるものとしての存在そのものなのである。


だからこそ名を剥奪することは,ただちに固有なものとしての人間の存在の抹殺となる。単に個体の識別という機能のためならば,番号や記号でどうしていけないことがあろうか。しかし,呼びかけるとき,われわれは,ただ単に,他と区別されたその個別性に呼びかけるのではなく,他によっては置き換え不可能な,固有なものとしてのその存在に呼びかけるのである。だから,名を剥奪され,番号による表示に置き換えられたとき,われわれはそれを「名」とは呼びはしないし,そのときそこでは,もはや存在の固有性,固有性としての存在は踏みにじられている。そこでは,存在は否定されているのだ。


そのことからも明らかなように,呼びかけとは,肯定である。存在の肯定である。まだ否定と対になる以前の,他との比較においてではなく,それゆえに絶対的でもある強い肯定である。名ということばにおいては,否定はない。だから,呼びかけとは存在を肯定すること,あるいは同じことだが,肯定することによって肯定的なものとして存在を開くことである。そして,呼びかけられるものとしての存在は,だから,本来的に強い肯定性を備えている。


この強い肯定性は,たとえばもっとも純粋な本質として把握されたときの愛のなかにあるものだ。わたしは,今の段階では,それをそのまま「愛」だとは呼びはしないが,しかしわれわれがみずからの経験を振り返ってみればすぐにも分かるように,それがどのような愛であれ,愛の究極的な本質は,呼ぶことにある。すなわち,なにかを要求したり欲望したりすることなく,いかなる否定性の影も差し込まないまったき肯定性において,ただ存在を呼ぶことにある。実際,ひとは――よくあることだが――,愛する者をもっとも近くに抱きしめつつ,しかしもっとも深いところから,相手の名を呼び,相手の存在を呼び,そしてけっして終わることのない肯定をアドレスし続けることがある。それは,相手の存在を存在としてただ肯定することである。つまりは,存在を存在させることである。だからこそ,たとえば愛する者の死という究極的な状況において,われわれはその存在の名を呼び,呼びかけないわけにはいかないのだが,そのときそうすることで存在は死を超えて存在させられるのだ。


存在の固有性,その肯定性は,こうして呼びかけることばに負っている。ことばの可能性がまったく失われてしまっているところでは,識別されるモノはあるにしても,肯定されるべき,愛されるべき存在はない。そしてまた,そうして呼びかけられるべき存在もまた,それ自体,愛という強い肯定性をその本質としている。つまり,みずから名づけ,呼びかけるものとして存在するのである。そしてそれこそが,近さということなのだ。近さとは,呼びかける近さである。存在者として,物理的に,あるいは心理的にどれほど近く,もう近さとすら言えないほど近くにあってもなお,そこには呼びかけざるをえない近さ,けっして同一性に解消されることのない近さが残り続ける。呼びかけ,そして呼びかけられうるものとして存在するとは,そのような近さにおいて存在するということなのだ。


名は,そのような存在の近さのアトラクターである。われわれが世界に棲んでいるのだとすると,そのときわれわれは,なによりも名のネットワーク,固有名の網の目を通して棲んでいる。名は,それがわたしにとっての強い肯定の対象であることを示している。われわれは,固有名の名づけを通して,それがなければなんとも無関心で,無機的な世界に,愛も信もそこからこそはじまるであろう存在の根を下ろすのである。


われわれ人間には,固有名のない世界は想像できない。名というものがない世界,それは人間には生きることが不可能な世界である。われわれは名を通して,世界をわれわれに近いものとする。愛すること,呼びかけることが可能なものとするのである。いや,それは人間存在だけではない。人間は,満天の星を名づけ,星座を発明し,ありとある植物,動物,鉱物を名づけ,どんな些細な地形にも名を与え,八百万の事物に名を見出し――そう,その名こそ「神」であったのだから――,たとえば茶道具がそうであるように無機物の道具にまで銘を与え,さらにはバクテリアにも無数の化学物質にも,原子や素粒子にまで名前をつけて,それを言いうるもの,呼びかけうるとまではいかなくとも,少なくともかかわりうるものとし,つまりは存在させるのである。いや,確かにそれらは,かならずしも固有な存在を指示し呼びかける固有名ではなく,一般的なカテゴリーを指示するいわゆる普通名詞かもしれない。だが,それはどうでもいいのだ。はじめてそれがその名で呼ばれ,名づけられたとき,その名は,固有なものとしてのその存在に向けて呼びかけていたはずである。存在の開示に対して差し出された名であるということにおいて,確かに,われわれが思い出せない遠いその起源において,普通名詞もまた固有な存在に対する敬意に満ちた驚異に満たされていたはずなのである。その遠い記憶を思い出すように,普通名詞にその本源的な呼びかけの力を返すためには,おそらく詩が必要なのだ。


それがすべてではないにしても,詩のもっとも本質的な使命は,名づけえぬものを名づけ,呼びかけえぬものを呼び,呼びかけることにある。詩は,言葉を通して,ことばのもっとも根源的な力をふたたび,何度も何度も呼びさます。日常の普通名詞にそのもっとも固有な存在の力を与え返すのである。詩とは呼びかけの発明にほかならない。


だが,呼びかけられるものにとっては,同時に,名は,危険なものでもある。呼びかけは,呼びつけへと,そのまま転化していく。名づけられ,呼びかけられることは,そのような仕方で,他者に明け渡されるということでもある。名は,それがどのように固有なものであり,特異なものであっても,かならず反復可能なものであり,また,すでに他の多くの名とともにそれらを含む範列に属するものである。そこには,共同性への明け渡しがあるのだ。名という宛先を通して,共同体から,共同体の法から,あるいは共同体の外の権力から,恐るべき判決がくだされるということもありうる。名は,そのような力――お望みならば,「暴力」と言ってもいいのだが――へと,そこで呼びかけられた存在を明け渡すかもしれないのだ。だから,名は,まさに明けられ,開かれたものとして存在を明けるのだが,しかしその明けを通じて,また存在は,冒されやすく,傷つきやすい(vulnerable)ものとしても現れてくる。


愛においてそれを名づけ,それを肯定し,それを存在させ,そうしてそれとともにこそ生きるものとして,それに呼びかけるということが一方にあり,また,その名を通して,それを呼びつけ,それを恐るべき暴力へ明け渡し,引き渡し,それを傷つけ,それを冒すということが他方にある。前者は後者の可能性をも開く。しかしだからといって,それは,両者が同じことの裏表であるということを意味しない。確かに,名づけることは,それ自体として,名なきものに,別のものでもよかったのかもしれない,恣意的でもあるようなひとつの名を与え,課し,刻み込み,そうすることでそれとの関係を,つまり存在論的であるようなひとつの関係を開くのだから,そこにはひとつの荒々しい力が働いているのではあるが,しかしそのような関係の設定なしには,われわれはこの世界に棲みつくことはできないし,生きうるものとしてこの世界を生きることはできないのだ。そして同時に,そのようにして世界が生きうるものとなるとき,それは独我論的な個の世界などではなく,すでになんらかの共同性へと開かれ,開けられた世界として立ち現れてくるのである。

(この項,了)■

小林康夫(こばやし・やすお)
1950年,東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授(フランス文学,哲学)。『思考の天球』,『表象の光学』。訳書に,ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』。