ベンヤミンのロシア 《3》 |
桑野隆|プロフィール |
4 異化
アーシャ・ラツィスはすでに1923年にミュンヘンでベルトルト・ブレヒトと知り合っており,彼の演出助手をつとめ,出演もしている。ベンヤミンは,以前から,ブレヒトに紹介してくれるようラツィスに頼んでいたが,それが実現したのはようやく1929年5月のことであった。このときの様子を,ラツィスは次のように書いている。
ベルリンでブレヒトと会った。食事をともにしながら私は……ベンヤミンがいかに興味深い人間であるかを延々説明していたが,とうとう我慢しきれず言った。 「ねえ,ベルト,どうしてベンヤミンと近づくのを渋るの? これじゃ,ベンヤミンにたいする侮辱だわ!」
今回は,ブレヒトも前より妥協的であった。けれども翌日,彼らが会うと,話はつながらず,面識はまったく形式的なものとなってしまった。わたしはがっかりした。ブレヒトのようなとても賢明なひとが,ベンヤミンのような情熱的な知性と幅広い見解の持ち主となんらの共通点も見出せないなんて。
ベルトルトがベンヤミンとその著作に関心をもったのは,かなりあとになってであった。双方が亡命状態におかれたファシズム独裁の折りには,デンマークに住んでいたブレヒトがヴァルターを自宅に招いた……
ラツィスは「ベルトルトがベンヤミンとその著作に関心をもったのは,かなりあとになってであった」と記しているが,ベンヤミンが同年六月六日付けでショーレムに宛てた手紙には,すでに「ぼくは幾人かの,言うに足るひとびとと知り合いになった。第一にはブレヒトと,いっそうよく知り合うようになった」とある(『ベンヤミン著作集 15/書簡Ⅱ,一九二九―一九四〇』晶文社)。また,ショーレム『わが友ベンヤミン』(晶文社)によれば,この手紙の三週間後には,「きみの関心を呼ぶことと思うが,最近ベルト・ブレヒトとぼくのあいだに友人関係が成立した」とショーレムに書いてきている。三原弟平『ベンヤミンと女たち』(青土社)によると,一般にラツィスの回想には勘違いもあるらしい。
なお,ショーレムは同書のなかで,「1929年以降のベンヤミンに,マルクシズムのアクセントがしだいに強く現れてくるのは,明らかにアーシャ・ラツィスとブレヒトの影響と関係している」と断言している。
さて,このようにしてベンヤミンがブレヒトとの親交を深めていった様子は,その後の書簡や次々と書かれるブレヒト論から明らかであり,ここでは繰り返さない。ベンヤミンがブレヒトの芝居において,「身ぶりを引用できるものにする」ことや,「教える者と学ぶ者のあいだに生じる弁証法的関係」に注目していることは,「プロレタリア児童劇場の綱領」の延長線上で十分に理解できる。
また,俳優が「身ぶりを引用できるものにする」前提としてセルフコントロールの問題があるが,これに関連してベンヤミンは,「メイエルホリドは,ベルリンで,かれの舞台の演技者と西欧の演技者とはどういう点で異なっているかという質問を受けて,こう答えた。『それはふたつの点で異なっている。まず,演技者は考えることができるという点で。つぎに,それも観念論的にではなく,唯物論的に考えるのでなければならない,という点で』と」と記している(『ベンヤミン著作集 9/ブレヒト』晶文社)。このようにベンヤミンにとっては,メイエルホリドとブレヒトは相似た存在であった。
ちなみに,メイエルホリドの芝居の大きな特徴のひとつに「グロテスク」があげられるが,メイエルホリド自身,そのエッセイ「見世物小屋」(1912)のなかで次のように述べている。
グロテスクは……意識的に鋭い対立をつくりだし……対立するものを混ぜ合わせる。……舞台のグロテスクの課題は,コントラストによってその動きを変化させる舞台上の出来事にたいし,観客に絶えずこのアンヴィバレンツな態度をとらせる点にあるのではないだろうか。グロテスクの基本は,観客をいま理解したばかりの段階からまったく予期しない別の段階へ連れ出そうとする芸術家の絶えざる志向なのである。
(『メイエルホリド・ベストセレクション』作品社)
また,1922年のパンフレットでは,「グロテスクは,自然の入念な誇張と再建(ねじり)であり,自然のなかでも日々の慣習のなかでも統一されていないところの対象を,統一させるものである」と記している。
このように,意外なコントラストをつくりだすことによって〈異化〉効果をもたらそうとしていた。ハンゼン=レーベによれば,「トレチヤコフや『新レフ』のドラマトゥルギーと美学がベルトルト・ブレヒトの異化理論に及ぼした直接的影響と並んでとくに考慮すべきは,ブレヒトにたいするメイエルホリドの影響である。トレチヤコフとレフがブレヒトの理論のイデオロギー的基盤の源になったのにたいして,メイエルホリドは技法,芸術的手法の源となった」(『ロシア・フォルマリズム』)。ブレヒトとメイエルホリドのこうした関係について,詳しくは,Katherine Bliss Eaton, The Theater of Meyerhold and Brecht,1985 に委ねることにして,ここでは問題を〈異化〉に絞ることにしよう。
ベンヤミンは「叙事的演劇とはなにか」(1939)のなかで,ブレヒトの考えでは「第一に必要なことは,まず状況を発見することだ(状況を異化する〈Verfremden〉こと,といってもよい)」と書いている。このブレヒト的〈異化〉について改めて確認しておくならば,岩淵達治『ブレヒト』(清水書院)には次のようにある。
本来の異化の狙いは,われわれの先入観にとらわれ,パターン化したものの見方や捉え方に刺激を与え,それによって眼を開かれたわれわれが,今まで気づかなかった新しい発見や認識を行うことなのだ。ブレヒトのV効果で重要なのはこの最終過程である。……知っているものを知らないものに置き換え(異化し),それによって真の本質の認識に進むと説明してもよい。現在あるものが異常であれば,真に「正常」な形は何かを考える,それは「変革」につながる。異化は実は「変革する思想」のすすめなのである。
ちなみに岩淵は,ブレヒトの〈異化〉が,たんに「おや変だなという異常な感じを与える」だけの文学の技法とはちがうと断っている。おそらく,ロシア・フォルマリズムの重鎮シクロフスキイの〈異化〉を指してのことであろう。
たしかに,シクロフスキイは「手法としての芸術」(1917)において,こう述べていた。
生の感覚を取りもどし,事物を感じとらせるためにこそ,石を石らしくせんがためにこそ,芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は再認=それと認めることのレベルではなく,直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることにある。そして,芸術の手法とは,事物を〈異化 ostranenie〉する手法であり,形式を難解にして知覚をより困難にし,より長びかせる手法なのである。というのも,芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的であり,そこで,このプロセスを長びかせねばならないからである。
(『ロシア・アヴァンギャルド 6/フォルマリズム〔詩的言語論〕』国書刊行会)
このように,シクロフスキイの場合は,「社会認識」のための〈異化〉という側面は感じられない。むしろ「快楽主義」との批判もあったくらいである。
この〈異化〉という用語をめぐっては,ブレヒトとの継承関係が興味深いところであるが,今日では,トレチヤコフを介してブレヒトに伝わったとする説が有力である。メイエルホリドといっしょに活動したこともある詩人・批評家・劇作家のトレチヤコフは,ブレヒトとも親しくしていた。のちにラツィスの連れ合いになるベルンハルト・ライヒは,ブレヒトが二度目の訪ソの折りに(1935年)トレチヤコフのアパートを訪問したときの場面を,つぎのように回想している。
わたしたちはとても風変わりな演劇上演を話題にしていた。……わたしがその上演〔オフロプコフによるポゴージン作『貴族たち』の演出〕のあるディテールに言及したところ,トレチヤコフが割りこんで「そう,それが異化(Verfremdung)なんだよ」と言って,ブレヒトに目配せをした。ブレヒトはうなずいた。このとき初めてわたしは,Verfremdungという言葉を耳にした。だからわたしには,ブレヒトはこの用語をトレチヤコフから得たとしか思われない。トレチヤコフは,「距離をとる」とか「異様なものにする」という意味のシクロフスキイの用語otchuzhdenieを,少し鋳直したのだと思う。
(引用はEaton, The Theater of Meyerhold and Brechtから)
シクロフスキイ自身は,晩年に『散文についての物語』(1966)のなかで,「ブレヒトは,自分の演劇実践のなかに,〈otchuzhdenieの手法〉と呼ばれるものを導入し,生活の現象や人間のタイプを月並みなかたちではなく指し示し,それらを新たな意外な側面から提供し,それらに能動的に対するよう強いた」と述べているが,自身との継承関係には触れていない。用語もostranenieではない。ちなみに,この時点ではシクロフスキイも,〈異化〉に関してブレヒトに近くなっており,認識的・批評的機能を付与している。
この点に関連して,ひとつのエピソードをあげておこう。エフィム・エトキンドが,フォルマリズムにたいする批判がまだ続いていた1950年代のソ連でブレヒトの著作の翻訳に携わったときの様子について,次のように書いている。
Verfremdungという言葉(ロシア語では ostranenie)は,strano(「不思議な,異様な」)に由来しており,「不思議な・異様なものにする」を意味する。この言葉は,友人トレチヤコフを介してブレヒトに伝わったものである。トレチヤコフはロシアのフォルマリストのサークルや未来主義者のサークルのメンバーであった。しかし,ブレヒトの理論的著作を翻訳するにあたり,この言葉をロシア語に再翻訳しなければならなかった。さてどうしたものであろうか。ostranenie をあてがっていれば,「ははーん,似非フォルマリズム的理論を復活させようというわけだな!」というわけで,ブレヒトはまったく禁止されていたであろう。そこでわれわれは,別の訳語を選ばざるをえず,otchuzhdenie と訳した。これならまったく同じことである。otchuzhdenie と ostranenie は同じことを意味しており,類義語である。このようにして,ostranenie は Verfremdung となり,それが今度は otchuzhdenie になった。そのため,今日,ブレヒトのロシア語訳を読んでも ostranenie には出くわさないのである。
(Bertolt Brecht: Political Theory and Literary Practice, The University of Georgia Press, 1980)
これが書かれたのは1980年であり,今日のロシアでは,ブレヒトの〈異化〉にもostranenieをあてることが多い。いずれにせよ,1950年代にはまだostranenieはフォルマリズムを連想させるがゆえに禁句であった。とりわけ30年代には「フォルマリズム」の名のもとに,メイエルホリド,エイゼンシテイン,ショスタコーヴィチなどが非難されるが,〈異化〉にかかわった者たちの運命も過酷なものであった。トレチヤコフは37年に日本のスパイの容疑で逮捕され,39年に銃殺の刑に処せられた。ラツィスは,29年の終わりか30年のはじめにモスクワに帰り,ベンヤミンとの文通は36年ごろまでつづいたらしいが,やがて反革命活動,スパイ活動,ファシスト・ナショナリスト的煽動の容疑で逮捕される。ライヒもラーゲリに送られた。メイエルホリドは40年に処刑される。ベンヤミンは1927年2月11日の『文学世界』に寄せた「演出家メイエルホリド」のなかで,すでにメイエルホリドを「不幸な人 ungl・ckliche Natur」と呼んでいた。(『メイエルホリドとドイツ』)
5 生産者としての作家
すでに30年代初頭にはソヴィエト文壇の主流から完全にはみだしていたトレチヤコフをもっとも有効に活かしたのは,ベンヤミンであった。ベンヤミンは,「生産者としての作家」(1934)において,20年代末のトレチヤコフらの「事実の文学」運動のなかに,「作品生産における作家の技術」の問題にたいするひとつの答を見出している。この関係でいえば,当のトレチヤコフは,1926年に「エイゼンシテイン――技師としての演出家」という題のエッセイを書いている。これは,まだ演劇時代のエイゼンシテインを,自分の内面を重視する演出家でもなければ,素材の克服に全力を注ぐ演出家でもない,第三のタイプの演出家として高く評価したものであった。
この演出家の素材は,広義での観客である。個人的感情の体系などはエンジンの燃料以上のものではない。俳優や舞台上の事物は建築材料にすぎず,こうした材料から,技師たる演出家は,大いなる創意をもって,単純で驚嘆すべき道具をつくりあげる。それらの道具の助けを借りて,多くの観客を操作し,こうした観客の感情を若返らせたり,肉づけしたり,燃え立たせたりしなければならない。
わたしにはエイゼンシテインがまさにこうした第三のタイプの演出家のひとりであるように思われる。……自然発生的な霊感的な創造から,社会的感情の形成にたいする複雑で可能な限り科学的に根拠付けられた作業へと移りつつある,新たなタイプの演出家……。エイゼンシテインの場合,スタイルはなく,あるのはコンストラクションの的確さである。
(トレチヤコフ『交差点としての国』)
「生産者としての作家」のなかでベンヤミンは,これと似たような,「作品生産における作家の技術」,「ある時代の作家が作品を生産するその生産関係の内部で作品がになう機能」を重視した具体例として,ほかでもないトレチヤコフに注目するよう,呼びかけている。「このオペレーターとしての作家は,機能的な被拘束性――正しい政治的傾向と進歩的な文学技術は,つねにどんな状況のもとでも,この拘束のなかにある――のためのもっとも明快なサンプルを提供している」というのである。(『ベンヤミン著作集 9/ブレヒト』晶文社)
ところで,トレチャコフの例をわざわざもちだしたのは,現在われわれのまえにおかれている技術の状態を手がかりにして,いわば総括的な視野から,文学の諸形式あるいはさまざまなジャンルの概念を考えなおすべきだ,ということに注意をうながしたかったからである。それというのも,現在の文学的エネルギーにその出発点を提示する,あの表現形式を手にいれるためなのだ。過去に存在したのは,かならずしもロマン〔長篇小説〕だけとはかぎらなかった。それに,ロマンが存在しつづけなければならない,というわけのものでもない。
このように,ベンヤミンはトレチヤコフやシクロフスキイたちが推し進めた「事実の文学」と明らかに連帯している。
「虚構(フィクション)の否定」と「事実の固着とモンタージュの重視」を基本とした「事実の文学」運動のリーダーであったトレチヤコフは,「赤きレフ・トルストイ」(1927)において,いま必要なのは「赤きトルストイ」の叙事詩ではなく,新聞という叙事詩であると主張したが,ベンヤミンはこれをほぼそのまま活かして,新聞においてこそ「ことばの真の救出が準備される」としている。
ブルジョア新聞がコンヴェンショナルな形で保ってきた作者と公衆のあいだの区別は,ソヴィエトの新聞では消えはじめる。文学が,タテの関係において失うものを,ヨコの関係において獲得するからである。……新聞,すくなくともソヴィエトの新聞を検討することによって……諸ジャンルの区別,つまり小説家と詩人のあいだの,専門研究者とポピュラーな解説者のあいだの区別がとりはらわれてしまうだけでなく,作家と読者のあいだの区別までも修正されてしまうということが,認められるのである。このプロセスにとって,新聞はもっとも決定的な作業領域であり,したがって,生産者としての作家のあらゆる考察は,新聞にまでおしひろげられなければならないのである。
(『ベンヤミン著作集 9/ブレヒト』晶文社)
この点をもう少し細かく見ておくならば,トレチヤコフのいう「事実の文学」は,新聞をひとつのモデルとして,文学作業の脱個人化,脱職業化,集団化をめざすものであった。「事実の文学」を,「(素材を豊富に有している)文学外のレベルの専門家」,「書き留める者」,「文学的にモンタージュ・加工する者」,「チェック役」等の分担でもって書き上げるといった分業化までも提案していた。大衆の自立をめざし,すべてのひとを書き手に! というわけである。
むろん,歴史を顧みた場合,新聞は,ましてやソヴィエトの新聞はこのようなモデルとなりえなかったことは,断るまでもない。けれども,当時のベンヤミンが大きな可能性をそこに認めていたことは事実である。それは,「ブレヒトは機能転換の概念をあみだした。かれは,生産装置を社会主義の方向にそって可能なかぎり変革するという作業を,同時的におこなうことなしには,その生産装置に供給すべきでない,というはるかな射程をもつ要求を,知識人のまえにもちだした最初の人物である」とブレヒトを評価して,その「ある種の仕事がきわめて個人的な体験(作品という性格をもつもの)ではもはやありえず,むしろ一定の施設とか機関の利用(改造)にむけられるという時点で成立する」との言葉を引用しているケースと重なっている。
ちなみに,トレチヤコフの場合,こうした姿勢はいっそう徹底しており,「主人公が現実をそっくり呑みこみ,主観化している」リアリズム小説の心理主義を批判して,「事物の伝記」が必要であるとすら述べている。「事物や外的な影響によって条件付けられる代わりに,むしろ人物像じたいが外部の事物を条件づけはじめる」ような事態をいかにして防ぐか,ということが問題にされていた。また,ベルトコンベヤー,木材,穀物,石炭,紙,機関車,工場といったテーマの本がまだ存在しない,という指摘などもおもしろい。これは,これまでの小説が「経済的なプロセスの関与者としての人間」を描いていないというトレチヤコフの批判に重なる。「ひとやものを消費者の目で見たものばかりであって,生産者の目でみたものがない」というわけである。
ともあれ,ベンヤミンもまた,「事実の文学」の試みや,あるいは生産主義者のアルヴァトフなどにも似て,消費者(読者)と生産者(作家)の区別を解消する可能性を切り開こうとしていた。「生産者としての作家にとって技術の進歩が,作家の政治的進歩の基礎をなす」と考えるベンヤミンにとっては,「まず自分以外の生産者に生産のための指示をあたえ,つぎによりよい装置をかれらの自由にまかせられるようにする生産モデルとしての性格が,決定的に重要となる。しかもこの装置が,消費者をますます生産の側にひきよせること――手みじかにいえば,読者あるいは観客から共同制作者をつくりだすこと――ができるようになれば,それだけその装置はより有効なものとなる」。
ベンヤミンのこうした立場は,ロシア・アヴァンギャルドの極点のひとつの表現になっているともいえよう。この関連では,ベンヤミンの芸術論の特徴のひとつであった「組織化機能」の重視も,いま一度,再検討の要がありそうだ。
(以下次号)■