テーブルとタブロー[その2]
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松浦寿夫|プロフィール |
シュルレアリスム的なイメージの形成原理の説明の場面で,解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘との出会いというロートレアモンの一節が例証として引き合いに出されることはよくあることだが,はたしてこの三つの要素の出会いはそれほど奇妙なことなのだろうか。より正確にいえば,不意に遭遇するミシンと蝙蝠傘という二つの項と,これら両者に対してその遭遇の場としてのテーブルを提供する解剖台との出会いという二重化された出会いというべきだろうか。この一節に関しては,クロード・レヴィ=ストロースが1977年の来日講演の際に,明晰な分析を提示している(「構造主義再考」,『構造・神話・労働』,みすず書房刊)。いわば,構造主義的な分析,あるいは解剖の様態を具体的に提示するための一例として,彼はこの一節の意味論的,ないし形態論的な対比と対立の諸関係を抽出している。ここで,その分析それ自体を紹介することはしないが,奇妙なことに,この見事な分析は驚きの解消ないし削減としてしか機能していないかのようだ。この事実は何を示しているのだろうか。それは,レヴィ=ストロースの分析そのものが抱え込む思考の枠組みと関連するのだろうか。あるいは,そもそも,このシュルレアリスム的なイメージの形成原理の選択それ自体に内属するものなのだろうか。ここでは,後者の問題について簡単に触れてみたいと思う。
もちろん,現実的な場面でこのような光景を目撃する機会はほとんどありえないかもしれないがゆえに,この不意の遭遇は驚きの喚起力を備えているのかもしれない。とはいえ,ミシンも蝙蝠傘もその視覚的な形状において,すでに,いずれも鋼鉄製の鋭利な尖端という意味論的な共通項を具えており,この共通の場において,ある種の隣接性をおびているのは明らかであるし,また解剖台で駆使されるメスのような器具を想起すれば,ここにも上記の共通項を見出すことはきわめて容易である。たしかに異質な項の並置によって生じるかもしれぬ驚きの効果は,これらの遭遇する要素間の意味論的な偏差の増大によって保証されているかのようだが,とはいえ,もしそうだとしても,この偏差とは相対的なものに過ぎないのではないだろうか。
むしろ,シュルレアリスムのイメージ形成の原理的な選択における貢献は,要素間の異質性を際立たせることによる驚きの生産という点ではなく,どれほど相互にかけ離れ,異質に見えかねない諸要素の遭遇ないし接合であってさえも,そこに必ずといってよいほど,何らかの共通の場が形成されざるをえないという事実の発見にあったとはいえないだろうか。結びつきの必然性をことごとく欠いたかにみえる項のあいだにも,共通の平面を創設しうる絶対的な可能性の確信,それが美学的であると同時に倫理的でもある原理として機能したのではないだろうか。つまり,驚くべき事態とは,異質な項の遭遇の超=現実性にではなく,どれほどかけ離れてみえようとも,それらの項のあいだに,必ずその接合を保証するような共通の場が産出されるということではなかっただろうか。
あるいは,ここで,記号の恣意性という概念を導入すべきだろうか。絶対的な非-必然性のもとでの結びつき,その意味で自由な結合としての恣意性。また,たとえば,エミール・バンヴェニストが指摘するような恣意性の逆説,つまり,まったく非必然的な結びつきにもかかわらず,ひとたびこの結びつきが成立すると,必然性の様相を呈するという逆説を考慮すべきだろうか。または,内部が空洞の二本の円柱,たとえば,二本のトイレットペーパーの芯状の円柱が,楕円形の平面と接合されるとき,この恣意的な接合が人間の顔の相貌を呈することのピカソによる発見もこの文脈に置くことができるだろうか。
いずれにせよ,ここで,レヴィ=ストロースが先の講演で言及したマックス・エルンストの「シュルレアリスムとは何か」と題されたテクストを読んでみよう。このなかで,エルンストはこのロートレアモンの一節に対して,
一見したところ対立的な性質を持った二つないしそれ以上の要素を,さらにそれらと対立的な性質を持つ平面の上で近づけると,詩的な炎が突然激しく燃え上がるきっかけとなるという現象,シュルレアリスムが発見したこの現象の古典はこれであるとみなされるようになった。
と記している。つまり,ここで要素間の対立性は二重の対立性であって,いわば,図を構成する二つないしそれ以上の要素の対立的な接合が,地としての平面と対立的な関係を構成していることになる。そしていうまでもなく,エルンストにとって,対立する諸要素の遭遇が生起する平面は,たとえばタブローという場に見出されることになる。
そうであれば,このシュルレアリスム的な定式も,図を構成する諸要素間の対立性と,図と地の対立性という,あらゆる絵画作品がその制作のあらゆる局面で直面せざるをえない仕組みの特殊な一様相の提示以外の何ものでもないとさえいえはしないだろうか。あるいは,なんら対立性の様相を帯びることがないかにみえる「テーブルの上に水差しとグラスがある」という事態は,「解剖台の上にミシンと蝙蝠傘がある」という事態と比較して,喚起する驚きの総量に本性的な差異が存在しうるだろうか。前者の事態は後者の事態よりも,喚起する驚きの量的な次元においてさえ,それが僅少であるなどと主張できるだろうか。もしそのような主張が肯定されるとすれば,つまり,「テーブルの上に水差しとグラスがある」という事態が何ら驚くべき事態として受け止められないのであれば,それはごく端的に,絵画的な感覚の全面的な欠如の徴候以外の何ものでもないだろう。少なくとも,セザンヌやジャコメッティはこの指摘に同意してくれるだろう。
テーブルの上に水差しとグラスがある。このたしかに日常的にみえかねない出来事も,それがタブローの場に変換されようとするとき,この事態が真に驚異的な出来事であることが明らかになるだろう。たとえば,「水差しとグラス」という記述を支える「と」で提示される両項の関係は,水差しにもグラスにも帰属しない。この両者の関係は水差しの性質でもなければ,グラスの性質でもなく,いわば,水差しにとってもグラスにとっても,この関係は絶対的な外在性に他ならない。また,いうまでもなく,テーブルと水差し,グラスとの関係もまた,これらのどの項にも帰属しない外在性である。そして,この関係の外在性をこそ,セザンヌは「奥行き」と呼んだのではなかっただろうか。
ところで,セザンヌの大回顧展を目撃し,セザンヌの絵画作品を内側から理解することを目的としたかのように,この巨匠のゆかりの制作地のひとつである南フランス,マルセイユ近郊のレスタックに赴き,キュビスムの端緒となる何点かの風景画を描いた画家がジョルジュ・ブラックである。やがてピカソとともに分析的キュビスムを形成していくことになるこの画家は,これまでも何度となく指摘されているように,いわゆる静物画という領域にその制作活動の大半を振り向けていくことになるのだが,だが,彼が真の課題としたものは静物群を構成する個々の事物ではなく,むしろ事物間の諸関係が生起する場としてのテーブルに他ならなかったはずだ。こういってよければ,テーブル絵画――彫刻家のアンソニー・カロが一群の作品に与えた「テーブル・スカルプチャー」という題名を借りて言えば,テーブル・ペインティングとでも呼ぶべきもの――の制作こそが,ブラックにとって生涯にわたって探求される課題であったはずだ。
そこで,ジョルジュ・ブラックの『昼と夜』に収められた覚書のひとつを引用しておくことにしよう。ここでブラックは,
「構築する」(construire)とは,同質の要素を寄せ集めることであり,「建造する」(batir)とは,異質な要素を結びつけることである。
セザンヌは「建造した」のであり,「構築した」のではない――構築は空間を埋めることを前提としている。
という命題を記している。ここで,同質の要素の集合を画面に構成する作業が,空間の充填を前提とし,異質な要素の接合がそれとは異なった絵画空間の構成原理を要請せざるをえないということを,ブラックはセザンヌの教えとして記述しているのだが,では,この教えはどのように受容されたのだろうか。
(この項続く)■